「バジル・ザハロフ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
6行目:
事態に蹴りをつけると彼はアテネに行き、現地の政界の有力者エチエン・スクルヂスに天賦の外交的才能を見込まれて[[スウェーデン]]の武器製造業者・[[トールステン・ノルデンフェルト|ソーステン=ノルデンフェルト]]社の代理店の主任に据えられた。
 
[[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]]終局後の当時のギリシアでは軍備拡張の機運が嵩じていた。しかしノルデンフェルト社は同業他社の[[クルップ]]、シュナイダー、[[ヴィッカース]]と比較すると分が悪く、そこでザハロフは視点を変えて当時では珍しかった[[潜水艇]]をギリシャ政府に売り込むことに成功した。さらに彼はそのギリシャと軍事的に対立していたオスマン帝国にも武器を売り込むなど同社の売り上げに貢献した。
 
その後、[[マキシム機関銃]]を発明した[[ハイラム・マキシム]]と邂逅し、やがてマキシム社をノルデンフェルト社と合同させると共に機関銃の売り込みで力を振るった。そのマキシム=ノルデンフェルト社も[[1897年]]にヴィッカース社に買収され、その代理人としてまた大株主としてザハロフは武器取引で重きを成した。こと[[第一次世界大戦]]では[[イギリス]]・[[フランス]]など連合国の武器調達に深く関わると共に、ギリシャの支援にも力を尽くした。だが[[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]]をめぐるザハロフの工作が議会で追及されるに至り引退を決意、[[モナコ]]に隠棲し[[モンテカルロ]]で没した。