「レオンハルト・ラウヴォルフ」の版間の差分

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==生涯==
初め[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ヴィッテンベルク大学]]で学び、その後、南フランスの[[モンペリエ大学]]、ヴァランス大学で、[[ギーム・ロンデルドレ]]に学び、有名な植物学者、[[カロルス・クルシウス]]を訪れた。1565年に故郷の[[アウクスブルク]]で医師を開業し、結婚した。薬草園を経営し、[[レバノン]]から薬草を輸入していた義理の兄、マンリッヒ(Melchior Manlich)の要望で、新しい植物や薬を探すために中東への旅することになった。[[フランス王国|フランス]]の[[マルセイユ]]を1573年に出発し、レバノンの[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]に向かった。トリポリから[[アレッポ]]に向かい、しばらく留まった後、1574年に[[バグダード]]と[[モースル]]を訪れ、1575年に[[エルサレム]]、アレッポ、トリポリを経て1576年にアウクスブルクに戻った。近世のヨーロッパの植物学者としては初めて、[[歴史的シリア|シリア]]とメソポタニアを訪れた人物となった。帰国した後、本草書"Viertes Kreutterbuech -- darein vil schoene und frembde Kreutter"を執筆した。
 
植物学の調査の他に、現地の人々や習慣やレバントの風景に関する感想を記録し1582年に[[ドイツ語]]で"Aigentliche Beschreibung der Raiß inn die Morgenländerin"を執筆し、これは1693年に英語訳され、"Dr. Leonhart Rauwolf's Travels into the Eastern Countries" として[[ジョン・レイ]]が編集した旅行記のコレクションの一冊として出版された。[[オランダ語]]にも訳された。ラウヴォルフはヨーロッパで初めて[[コーヒー]]を飲む習慣について記述し、「まるでインクのように黒いChaubeという飲み物が、特に胃の病気に有効であり、早朝、できるだけ熱くして陶器のコップからすばやくすすられる」と紹介した。またトリポリの人々の食生活についても紹介した。