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== 来歴 ==
現在カヌー講師で1964年[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]への出場歴がある[[カヌー]]選手であった[[本田大三郎]]の子として生まれる。プロ[[サッカー]]選手[[本田圭佑]]の実父とは、いとこ従兄弟間柄にあたる。父から「レスリングで優勝できなければ[[大相撲]]」へ入門させると脅され、必死にレスリングの練習に励んだ。中学時代から[[自衛隊]]の練習に参加するなど、早くから[[アマチュアレスリング|レスリング]]の素質を見出され、日大在学時に[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]レスリング・フリースタイル100kg級で5位入賞し(高校・大学の同窓に[[小林孝至]]がいる)、[[自衛隊体育学校]]へ進んだ。当時から異色な人物像で知られており、[[杉浦貴]]が後年述べるところによると「[[兵隊やくざ]]」と呼ばれていた。3度のオリンピック出場や全日本選手権8度優勝など日本レスリング史上、最高の実績を持つ。当時を知る関係者が「多聞さんが普通に練習をしていたら、オリンピックでメダルぐらい楽に取れていた」というほどで、ある種天才肌である。その技術力の高さから「'''アマレスの神様'''」と呼ばれた。
 
1993年[[全日本プロレス]]入団、同年10月8日、[[大分県立荷揚町体育館]]大会で[[テッド・デビアス]]相手にデビュー。プロレス転向後「プロレスの技術を習得するために」とレスリングの技術を封印しヘッドバットを多用するスタイルを身につけた。本田自身が述べるところでは、「同じラケットを使う競技でも、テニスと[[バドミントン]]みたいに違う」ものだと言う。試合中、ボディスラムで倒した相手に対し、側転から倒れ込み式ヘッドバットを入れるという、彼にしては珍しいアクロバティックな技を披露したことがあるが、これを見たタッグパートナーの[[三沢光晴]]は笑いを堪える程受けていた。後にテレビ番組で三沢は「僕も体操やっていたからわかるんですけど、アレまるっきり(側転をする)意味が無いんですよ」と語った。しかし、稀にレスリング技術を披露し、[[UWF|U系]]レスラーをレスリング技術で寄せ付けなかったこともある。デビューした当時の新入団選手紹介の時はスポーツ刈りだったが、後に長髪を振り乱したヘアスタイルとなった。その姿を[[福澤朗]]が「原人」と表したことからニックネームとして定着した。だがプロレスラーでは珍しく、インタビューにおける一人称に「私」を用いることや、[[プロレスリング・ノア中継|プロレスノア中継]]での解説などで垣間見えるように、素性はインテリである。現在は長髪を後でくくるヘアスタイルがトレードマークである。