「エアロドローム」の版間の差分

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5万ドルの合衆国軍事予算の交付金で組み立てられて、[[チャールズ・マンリー]](Charles M. Manly)によって操縦された実物大のAerodromeは、[[1903年]]10月7日、および同年12月8日に同様にテストされた。ちなみに12月8日のわずか9日後に、ライト兄弟が、[[キティホーク (ノースカロライナ州)|キティホーク]]([[ノースカロライナ州]])にて4回の試験飛行に成功している。この試みは両方とも、飛行できずにポトマック川に墜落している。尚、パイロットは無傷で救助されている。
 
エアロドロームは、53馬力と、1903年のライト兄弟の[[ガソリンエンジン]]のものの約4倍もの出力を持った[[マンリー・バルザーエンジン|エンジン]]を搭載していたが、ラングーは適切に、機体の空力特性についての計算と航空機の制御という問題に十分なを向けなかった。ラングレーは機体それ自体が安定性を持っていれば、操縦者の技量とは関係無く飛行できるものと考えていた。これは操縦応答性を最優先し安定性を犠牲にした[[ライトフライヤー号]]とは全く逆のコンセプトであり、そして無惨な失敗となった。
 
そして、エアロドロームは実験後解体され、この実験が新聞と[[アメリカ合衆国議会]]で嘲笑の的となったことを知ったラングレーは追加試験を中止した。
 
==その後==