削除された内容 追加された内容
調整
TempuraDON (会話 | 投稿記録)
91行目:
[[1972年]](昭和47年)佐藤引退を受けて自民党内で巻き起こった[[角福戦争]]では、佐藤の意を受けて[[福田赳夫]]を支持した。田中退陣後は福田派に客分格として参加、[[三木武夫]]内閣時に自民党政務調査会長に送り込まれるなどしたが、[[三木おろし]]の渦中で、次第に福田と疎遠になり、三木シンパとなる。三木は、松野を中曽根康弘の後任の幹事長に起用しようとするが、福田、[[大平正芳]]の反対に遭い、総務会長に就任。これを期に福田派を離脱した。領袖であった福田からは「はぐれガラス」と批判されたが、福田派の中で唯一松野の意見を支持したのが当時の1年生議員・[[小泉純一郎]](後の首相)であったという。なお、松野は小泉の父・[[小泉純也]]とは盟友関係であり、同じ福田派の小泉の後見人的立場でもあった。
 
[[1979年]](昭和54年)、[[ダグラス・グラマン事件]]で、[[日商岩井]]から政治献多額のを受領したとして松野の名が上がり、この政治献金問題で5月に衆参両院の[[証人喚問]]を受けた。[[市川房枝]]に諄々と説かれるような喚問を受けた松野は絶句したという。結局、松野は「松野頼三を育てるための政治献金」と献金5億円の授受を認める答弁をした([[政治資金規正法]]違反や[[賄賂罪|収賄罪]]に関しては刑事時効が成立)。7月25日に衆議院議員を辞職し、自民党を離党した。[[10月7日]]の[[第35回衆議院議員総選挙]]に立候補したが落選。[[1980年]](昭和55年)[[6月22日]]の[[第36回衆議院議員総選挙]]に再度立候補し当選、自民党に復党した。[[1984年]](昭和59年)の[[自民党総裁選挙]]を前に対抗馬として[[二階堂進]]を立てようという[[二階堂擁立構想]]に参加した(松野と二階堂は同じ[[吉田学校]]出身であり、かつ九州出身、同じ佐藤派の幹部同士だったこともあり旧知の仲だった)。
 
[[1990年]](平成2年)[[2月18日]]の[[第39回衆議院議員総選挙]]に落選し、政界を引退。その後は、[[細川護煕]]の政治指南役をつとめ、細川の議員辞職後、後継に長男の[[松野頼久]]を推した。政界引退後も「政界のご意見番」として、小泉内閣発足後は「小泉首相の師」として積極的にマスコミに登場していた。