「松野頼三」の版間の差分
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[[1972年]](昭和47年)佐藤引退を受けて自民党内で巻き起こった[[角福戦争]]では、佐藤の意を受けて[[福田赳夫]]を支持した。田中退陣後は福田派に客分格として参加、[[三木武夫]]内閣時に自民党政務調査会長に送り込まれるなどしたが、[[三木おろし]]の渦中で、次第に福田と疎遠になり、三木シンパとなる。三木は、松野を中曽根康弘の後任の幹事長に起用しようとするが、福田、[[大平正芳]]の反対に遭い、総務会長に就任。これを期に福田派を離脱した。領袖であった福田からは「はぐれガラス」と批判されたが、福田派の中で唯一松野の意見を支持したのが当時の1年生議員・[[小泉純一郎]](後の首相)であったという。なお、松野は小泉の父・[[小泉純也]]とは盟友関係であり、同じ福田派の小泉の後見人的立場でもあった。
[[1979年]](昭和54年)、[[ダグラス・グラマン事件]]で、[[日商岩井]]から
[[1990年]](平成2年)[[2月18日]]の[[第39回衆議院議員総選挙]]に落選し、政界を引退。その後は、[[細川護煕]]の政治指南役をつとめ、細川の議員辞職後、後継に長男の[[松野頼久]]を推した。政界引退後も「政界のご意見番」として、小泉内閣発足後は「小泉首相の師」として積極的にマスコミに登場していた。
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