「ドワイト・D・アイゼンハワー」の版間の差分

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1942年6月、アイゼンハワーは[[ロンドン]]に司令部を置く[[ヨーロッパ作戦戦域|ヨーロッパ戦域]]司令官に着任した。アイゼンハワーはアメリカ軍による新聞検閲制度を廃止し、兵士達のトラブルをあえて開示することで綱紀を粛正しようとした{{sfn|児島襄|1974|pp=181}}。また兵士達に対してアメリカの戦争目的が民主主義のためであるという教育を徹底させ、また兵士達にイギリス人に対する配慮を求めることで、両国感の関係を改善させた{{sfn|児島襄|1974|pp=180-183}}。アイゼンハワー自身に対する人気も高まり、日に9回もパーティーに出席せねばならないほどであった{{sfn|児島襄|1974|pp=183}}。
 
最初の大仕事は[[モロッコ]]と[[アルジェリア]]への連合軍上陸作戦、即ち1942年11月8日に開始された「[[トーチ作戦]]」であった。アイゼンハワーはこの作戦のために設置された{{仮リンク|連合国軍司令部|en|Allied Force Headquarters}}の司令官となり、イギリス軍や旧[[ヴィシー政権]]軍の将軍達との調整を行った{{sfn|児島襄|1974|pp=183-185}}。中でもトーチ作戦の最高司令官の座を要求した、[[アンリ・ジロー]]大将を説得し、北アフリカにおける民政長官の座を与えることでおさめたことは、彼の高い調整能力を示すものであった{{sfn|児島襄|1974|pp=185}}。マーシャルや[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領は「国威発揚をもたらし、高い調整能力をもつ」として、1944年3月にアイゼンハワーを大将に任命した{{sfn|児島襄|1974|pp=185}}。中佐になってからわずか4年であり、この時点では空前のスピード昇進であった。以降[[ハスキー作戦]]に始まる[[イタリア戦線 (第二次世界大戦)|イタリア戦線]]の最高指揮官となり、[[ジョージ・パットン]]や[[バーナード・モントゴメリー]]といった癖の強い部下達の調整に当たった{{sfn|児島襄|1974|pp=185}}。9月8日には[[イタリア王国]]との休戦条約を締結している([[イタリアの講和 (第二次世界大戦)]])。
 
== 連合国軍最高司令官 ==