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== 経歴 ==
1868年(明治元年、福岡県[[遠賀郡]][[折尾町]]現・[[北九州市]][[八幡西区]])に出生。
 
1886年(明治19年、福岡県立英語専修修猷館(現・[[修猷館高等学校]])に入学。その後、法律家を志し修猷館を中退。[[明治法律学校]](現・[[明治大学]])に入学。
 
卒業後、帰郷し[[筑豊炭田]]の積出港であった福岡県遠賀郡若松町において石炭商の仕事に従事、独立後に炭鉱経営者として成功を収め、大正7年には若松市議会議長に就任。しかし持病の胃腸病が悪化し事業たため経営の第一線から退き、1918年(大正7年)に[[若松市]]議会議長に就任
 
第一次世界大戦後の[[戦後恐慌]]下、石炭鉱業連合会の設立構想を三井、三菱、古河等の財閥や有力者に熱心に説いてまわり、創設に尽力した。1921年(大正10年、連合会創設のために上京した折り、目にした[[時事新報]]社説で、東京府美術館(現・[[東京都美術館]])の建設計画が資金難のため頓挫しつつあることを知り、面識があった東京府知事[[阿部浩]]に即座に100万円(現在の約33億円相当)の寄付を申し出た。これにより、[[岡倉天心]]や[[横山大観]]らの「美術館が欲しい」という明治以来の日本美術界の悲願が実現することとなった。
石炭鉱業連合会の設立構想を三井、三菱、古河等の財閥や有力者に熱心に説いてまわり、創設に尽力した。
 
1922年(大正11年)、[[三菱鉱業]]の監査役に就任したのを契機に、事業を人に任せ20を超える要職から退いた。1934年(昭和9年)それまで居住していた若松市(現北九州市[[若松区]])の邸宅を若松市に寄付し、温泉地である[[大分県]][[別府市]]に移住、晩年を同地で過ごした。なお、若松の旧邸宅敷地は「佐藤公園」として利用され、記念碑ならびに胸像が設置されている。
大正10年、連合会創設のために上京した折り、目にした時事新報社説で、東京府美術館の建設計画が資金難のため頓挫しつつあることを知り、面識があった東京府知事[[阿部浩]]に即座に100万円(現在の約33億円相当)の寄付を申し出た。これにより、[[岡倉天心]]や[[横山大観]]らの「美術館が欲しい」という明治以来の日本美術界の悲願が実現することとなった。
 
1935年(昭和10年、寄金150万円により、財団法人佐藤新興大日本生活館([[山の上ホテル]]本館)協会を設立。衣食住、家庭経済、風俗習慣などの改善研究をやり実験設備として生活訓練所、児童研究所、模範部落建設、教育機関 を通じて新生活指導者を養成するほか新興生活実行組合を全国に作るという大掛りな構想を発表した。その拠点として1937年(昭和12年)に「佐藤新興生活館」(現・[[山の上ホテル]]本館)を建設した。
大正11年、[[三菱鉱業]]の監査役に就任したのを契機に、事業を人に任せ20を超える要職から退いた。
 
また、貧困により医薬が購入できない人への救済組織として「財団法人若松救療会」などを設置したり、「福岡農士学校」開設にも協力するなど、「美しい生活とは何か」を希求し続け、食生活や農村の改善、女子教育の向上にも尽力した。優秀な若者には奨学金を提供し、先見性のある医師や社会活動家に支援を惜しまず、日本の芸術文化と生活文化の双方に寄与した。その社会奉仕の功績を顕彰し、その精神を未来に継承する芸術文化活動や生活文化活動を奨励しようという「佐藤慶太郎顕彰会」が齊藤泰嘉[[筑波大学]]教授らにより設立されている。
昭和10年、寄附金150万円により、財団法人佐藤新興生活館([[山の上ホテル]]本館)を設立。衣食住、家庭経済、風俗習慣などの改善研究をやり実験設備として生活訓練所、児童研究所、模範部落建設、教育機関 を通じて新生活指導者を養成するほか新興生活実行組合を全国に作るという大掛りな構想を発表した。
 
また、財団法人若松救療会などを設置したり、福岡農士学校開設にも協力するなど、「美しい生活とは何か」を希求し続け、食生活や農村の改善、女子教育の向上にも尽力した。
 
優秀な若者には奨学金を提供し、先見性のある医師や社会活動家に支援を惜しまず、日本の芸術文化と生活文化の双方に寄与した。
 
その社会奉仕の功績を顕彰し、その精神を未来に継承する芸術文化活動や生活文化活動を奨励しようという佐藤慶太郎顕彰会が齊藤泰嘉筑波大学教授らにより設立されている。
 
== 参考文献 ==