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[[1575年]]([[天正]]3年)、[[織田信長]]の才能を高く評価していた夫・孝高は、主君の小寺政職に臣従を進言し、[[毛利氏]]攻めなどの先鋒を務める。
[[1578年]](天正6年)3月、[[別所長治]]が殆どの周辺豪族を引き込んで信長に反旗を翻すと、実家
[[1597年]]([[慶長]]2年)、熊之助が[[慶長の役]]の中にある孝高と長政を追って、同年代の家臣([[母里友信]]の子や[[黒田一成]]の弟ら)と共に[[李氏朝鮮|朝鮮]]に渡海しようと試みたが、[[玄界灘]]で暴風雨に遭い、遭難死する。
[[1600年]](慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]の勃発時には、[[石田三成]]が大坂に残っている大名の妻子を人質にしようとしたが、[[細川ガラシャ|明智珠(細川ガラシャ)]]が拒否して玉造の屋敷に火を放った際、孝高の家臣たち([[栗山利安]]、母里友信、[[宮崎重昌]])は監視の目が薄くなったのを見計らい、長政室の[[栄姫|保科氏]]と共に、光を長柄の屋敷から孝高の居城の[[豊前国]][[中津城]]まで船で脱出させた。
夫や息子は[[受洗]]して[[キリシタン]]となったが、光は熱心な[[浄土宗]]の信徒で、[[1602年]](慶長7年)に出家して照福山顕光院[[圓應寺]]などの寺院を建立した。黒田家では「才徳兼備(才能と容姿に徳を兼ね備えていた)」と称えられた。
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