「ヘンリー4世 (イングランド王)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Addbot (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 51 件をウィキデータ上の d:q161866 に転記
編集の要約なし
34行目:
[[1398年]]、従兄の[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]に[[トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公)|トマス・モウブレー]]との諍いを咎められ、[[パリ]]に追放されて相続権を奪われ、翌年に父が死んで残ったランカスター公領も没収された。1399年[[7月4日]]にイングランドに上陸。8月には[[アイルランド]]遠征から帰還途中のリチャード2世を[[ウェールズ]]との国境で破り、リチャードを逮捕した。[[9月30日]]、議会はリチャード2世の廃位とヘンリーの王位継承を議決、[[ランカスター朝]]を開いた。
 
治世の初期、[[ウェールズ]]での[[オウェイン・グレンダウァー]]([[:en:Owain Glyndŵr|Owain Glyndŵr]])の反乱や、[[ノーサンバランド伯]][[ヘンリー・パーシー (初代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]・[[ヘンリー・パーシー (ホットスパー)|ホットスパー]]父子の反乱({{仮リンク|シュルーズベリーの戦い|en|Battle of Shrewsbury}})などに悩まされたが、長男のハル([[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]])らの働きもあって晩年の治世は安定した。
 
[[1403年]]、[[ブルターニュ公]][[ジャン4世 (ブルターニュ公)|ジャン4世]]の未亡人ジャンヌ・ド・ナヴァール([[ジョーン・オブ・ナヴァール]])と再婚する。子供はいない。