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[[司空]]の属官として招かれ、[[侍御史]]に任命する話も出たが、これは辞退した。戦乱を避けて[[江南]]に避難していたところ、詔勅が出て[[揚州]]刺史に任命された。当時の揚州の治所は[[寿春]]であったが、当時寿春には[[袁術]]がいたためこれを避け、曲阿を本拠地とした。当初は、曲阿で勢力を持っていた[[呉景]]と[[孫賁]]に自分のことを支持させていたが、袁術が揚州支配を目指して[[陸康]]を攻撃するなど軍事活動を起こすと、袁術から官位を受けていた呉景と孫賁が邪魔になったことから、[[樊能]]・[[張英 (後漢)|張英]]を用い彼らを追放した。袁術は新たな揚州刺史を任命して、呉景と孫賁に命令して劉繇を攻撃させたが、1年かかっても破ることはできなかった。朝廷は劉繇に揚州牧・振武将軍の官を加え、劉繇は数万の兵を擁す勢力となった。
 
劉繇の下には[[太史慈]]・[[孫卲]]を始めとする同郷の人物や、[[徐州]]の[[陶謙]]と不和になって逃れてきた[[許劭]]・[[薛礼]]・[[サク融|笮融]]といった人物が集まっていた。太史慈は武勇に優れた人物であったが、劉繇は人物鑑定家の許劭の目を気にして、太史慈を使いこなすことができなかった(「太史慈伝」)。
 
[[195年]]、[[孫策]]が袁術の後援を受け攻め込んで来た。孫策は張英・樊能を破り牛渚の軍営を奪い、劉繇を大敗させた。また秣陵の薛礼・笮融も敗北し、再び奪回した牛渚も結局失陥した(「孫破虜討逆伝」)。さらに劉繇方の拠点は次々に落とされ、劉繇は曲阿を維持することができなくなった。このため劉繇は、[[王朗]]を頼って会稽に逃げようとしたが、許劭の勧めで長江を遡って豫章に逃亡することにし、[[曹操]]や[[劉表]]の援助を期待して彭沢に駐屯した(『漢紀』)。