「フリッツ・プフェファー」の版間の差分

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プフェファーの父イグナツは1942年10月に[[テレージエンシュタット強制収容所]]で殺害された。母ジャネットは1925年に死亡した。 彼の兄弟のユリウス・プフェファー(Julius Pfeffer)は、1928年に死亡。同じく兄弟のエミール・プフェファー(Emil Pfeffer)は南アフリカに移住、エルンスト・プフェファー(Ernst Pfeffer)はイギリスに移住、ハンス・プフェファー(Hans Pfeffer)はアメリカ・[[ニュージャージー州]]に移住している。また離婚した妻ヴィラは[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュヴィッツ強制収容所]]で死亡している。
 
1936年に非ユダヤ人女性のシャーロッタ・カレータ(Charlotta Kaletta)と恋人となる。しかしユダヤ系と非ユダヤ系の結婚を禁じたニュルンベルク法のために結婚できなかった。プフェファーは1938年11月におこった反ユダヤ主義暴動「[[水晶の夜]]」事件を見て本格的に危険が迫ってきていることを悟り、12月に故国ドイツを離れる決意を固めた。シャーロッタとともに[[オランダ]]・[[アムステルダム]]へ移住し、ここで歯科医を開業した。同じくドイツから逃れてきたユダヤ系の[[オットー・フランク]]一家や[[ヘルマン・ファン・ペルス]]一家と親しくなった。また後に隠れ家での生活を支援する[[ミープ・ヒース]]([[:en:Miep Gies]])とフランク家を通じて知り合い、彼女はプフェファーの患者の一人となった(また後年には息子ヴェルナーも生前に一度、ミープと会っている知り合えた)。
 
しかしアムステルダムでの平和な生活も長くは続かなかった。二年後にドイツ軍がオランダを侵略し、全土がドイツ占領下に置かれてしまった。オランダ総督[[アルトゥール・ザイス=インクヴァルト]][[親衛隊中将]]はオランダでも次々と反ユダヤ立法を行う。プフェファーは再び危険な立場に置かれた。彼はミープ・ヒースに隠れられる場所を相談した。ミープはオットー・フランクの会社があったアムステルダム・プリンセンフラハト通り263番地ですでに隠れ家生活に入っていたフランク一家やファン・ペルス一家にプフェファーのことを相談した。オットー・フランクはプフェファーを同居人に加えることに賛成し、プフェファーもここで隠れ家生活に入ることとなった。この際、職業上の都合で隠れ家入りの予定を数日延期しており、それはオットー・フランクも了解の上だったのだが、アンネは日記上で批判していた。シャーロッタはユダヤ系ではないため、隠れ家生活には入らなかった。