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[[1938年]]海軍兵学校(第65期)卒業。戦艦「金剛」、重巡洋艦「利根」、「熊野」乗組。昭和14年海軍練習航空隊飛行学生。航空母艦「飛龍」乗組を経て、昭和16年霞ヶ浦航空隊司令承命服務。[[1944年|19年]]海軍少佐。[[1945年|20年]]年台湾第29航空戦隊参謀、[[1946年|21年]]第2復員省臨時調査部勤務。以後、法廷係として極東国際軍事裁判(東京裁判)のほとんどを傍聴。平成17年1月24日死去。享年87歳。
 
 東京裁判の全審理を傍聴した「生き証人」として、執筆・講演活動のため日本全国を精力的に飛び回り、若い人々との交流にも積極的であった。その東京裁判に関する該博な知識を駆使し、マスコミ・作家による東京裁判関係の取材にも応えた。
 市ヶ谷台一号館(旧陸軍士官学校講堂)を取材したNHKの番組にも出演。山崎豊子『二つの祖国』執筆に当たっても、山崎女史に東京裁判関係部分の描写につき、助言を行なった。同書(新潮文庫)下巻225ページ、東京裁判法廷における元外務大臣東郷茂徳の証言場面、「傍聴席の最前列で連日、法廷記録をメモしている元海軍少佐」とあるのは、冨士氏のことである。
 
==著書==