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天文23年(1554年)、井上之正の子として生まれる。
 
[[黒田職隆]]、[[黒田孝高|孝高]]、[[黒田長政|長政]]、[[黒田忠之|忠之]]の4代に仕え、[[小田原征伐]]、[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]、[[関ヶ原の戦い]]に参加した。特に関ヶ原の戦いでの[[石垣原の戦い]]では、[[大友氏]]の家臣・[[吉弘統幸]]を討つ武功を挙げた。主君・長政の[[筑前国]]への移封の際に[[黒崎城]]を築き、1万6,0006000石を領した。[[福岡藩]]の[[お家騒動]]である[[福岡藩#黒田騒動|黒田騒動]]が起こると[[栗山利章]]と結んで[[倉八正俊]]を排斥した。
 
寛永11年(1634年)死去。墓所は[[福岡県]][[岡垣町]]の龍昌寺。
 
==逸話==
石垣原の戦いで討ち取った吉弘統幸は、大友氏の改易後、[[立花宗茂]]に仕官するまでの間、之房の元に身を寄せていた。統幸は[[豊臣秀吉]]から「無双の槍使い」と賞讃されて一対の朱柄の槍を許されていた豪傑であったが、当日の連続作戦し敵将小田九朗左衛門など30~40人を自ら討ち取るも重傷を負い、友の之房に功を挙げるため、自刃して討たれたといわれる。
 
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[[Category:戦国武将]]
[[Category:福岡藩の人物]]
[[Category:1554年生]]
[[Category:1634年没]]