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「希望社」のリンク先ページが同名の建設コンサルタント企業となっていたため、リンク先を社会運動団体「希望社」の設立者である「後藤静香 (社会教育家)」に修正。
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[[アイヌ民族]]の地位向上のための運動に一生を捧げ、その思想を新聞や雑誌に[[短歌]]の形で発表して、同時代のアイヌの青年たちに影響を与えた。また道内のアイヌコタンを廻って、まずアイヌ自身が自覚し、団結することが必要であると説いた。
 
[[バチラー八重子]]、[[森竹竹市]]と並ぶ、「アイヌ三大歌人」の一人。「アイヌの[[石川啄木|啄木]]」と称されることもある。著作に『違星北斗遺稿 [[コタン]]』(昭和5年・[[後藤静香 (社会教育家)|希望社]]、現在は[[草風館]]より復刊)がある。
 
== 生涯 ==
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その後、北斗は金田一の関係する「東京アイヌ学会」に招かれ、[[民俗学]]の[[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]]、[[沖縄学]]の[[伊波普猷]]をはじめとする、そうそうたる学者たちの前で講演をしている。この金田一の人脈から、[[松宮春一郎]]、[[山中峯太郎]]といった出版人や作家との交流もはじまった。
 
また、西川光次郎の修養雑誌「自働道話」の活動に深く関わる一方、当時影響力を持っていた社会運動団体「[[後藤静香 (社会教育家)|希望社]]」の[[後藤静香 (社会教育家)|後藤静香]]や、[[田中智学]]の主宰する[[日蓮]]系の仏教団体「[[国柱会]]」を訪ねて思想や宗教に対しての考察を深めていった。
 
このように、東京時代の北斗は、市場協会での仕事の傍ら、名士や著名人との出会いに恵まれ、学会や講演会などにも参加して知識と経験を得ただけでなく、北海道では絶えず逃れられなかった差別への苦しみからも解放されて、安穏として充実した毎日を送っていた。
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1926年(大正15年)7月5日、北斗は上野駅から夜行列車に乗り込み、多くの人々に見送られて東京を後にした。7月7日には幌別([[登別市|登別]])に到着する。最初に向かったのは[[バチラー八重子]]のいた[[聖公会]]の幌別教会であった。幌別には数日寄宿し、知里幸恵の家を訪ね、知里真志保と会った。
 
北斗は白老など近隣のコタンを廻った後、7月14日にはアイヌ文化の習得を目的として、[[平取町|平取]]に入っている。平取では[[後藤静香 (社会教育家)|希望社]]の後藤静香が支援し、[[ジョン・バチラー]]の経営する幼稚園を手伝うが、北斗がいる時に後藤が幼稚園への援助を打ち切るなどのトラブルがあり、双方をよく知る北斗は板挟みになって苦しんでいる。
 
土建業などの日雇い労働をしながら、[[日高支庁|日高]]の[[コタン]]を廻って「自働道話」誌を配り、同族と語り合い、啓蒙活動を続けた。この頃出会った人物としては、[[長知内]]でアイヌ児童の教育に尽力した[[奈良農夫也]]や、[[二風谷]]の指導者であった[[二谷国松]]などがある<ref>他の手紙や出版物などと照らし合わせると、遺稿集『コタン』所収の日記の「昭和2年」のものとされている出来事のはほとんどが、実際には「大正15年」の出来事であると思われる。それを裏付けるように、日記の曜日が昭和2年ではなく大正15年の曜日と一致する。また、バチラー八重子と一緒にいたのは平取ではなく、幌別(登別)の教会でのことなのだが、死後発行された希望社版の「コタン」の日記に「平取にて」と記入されてしまったがため、長らく誤解されたまま、北海道帰道後の一連の北斗の動きをわかりにくいものにしていた</ref>。