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近代天文学が確立する以前、多くの文明で日食や月食を説明する[[神話]]が長い間語り継がれてきた。これらの神話の多くでは、日月食は複数の神秘的な力の間の対立や争いによって起こるとされた。
=== インド ===
[[ヒンドゥー教]]の神話では食が起こる月の昇交点が[[ラーフ]](Rahu)、降交点が[[ケートゥ]](Ketu)という2人の魔神として[[擬人観|擬人化]]されこの二神の働きによって食が起こると考えられた。この二神が象徴する二交点は後に古代中国で羅睺星・計斗星の名で[[七曜]]に付け加えられ、[[九曜]]の一員を成している<ref group="注">ラーフは[[仏教]]の[[釈迦]]の息子の名・ラーフラ(''Rāhula''。漢訳、[[羅睺羅]]、らごら)にも用いられたことで知られる。ただし、ラーフラについては別の説もある。古代のインド語では「ラーフ」はナーガ(竜)の頭、「ケートゥ」は尻尾をも意味した。そしてシャカの一族のトーテムは、他ならぬナーガであった。このことからラーフラとは古代インドの言い回しで「竜の頭」を意味したと考えられ、「ナーガの頭になる者」が生まれたことを歓喜した釈迦が名づけたという説である。根拠は古来インドでは一族の跡継ぎがなければ出家することはできず出家を願っていた釈迦には息子の誕生はまたとない吉報であること、また釈迦の父・浄飯王もこの命名を喜んでいることである。</ref>。
 
=== 中国 ===
古代中国では日食など天変を[[天]]の警告とみなし、「日蝕説」によれば「日者,太陽之精,人君之象。君道有虧,有陰所乘,故蝕。蝕者,陽不克也。」(仮訳:日は太陽の精気で、君主の象徴である。君主の道に欠ける所があれば、陰に乗じられることとなり、日食が起こる。日食とは陽が勝たないことである)という。そのため統治者は天体観測を非常に重視し、豊富な観測記録が残されている。ある日食の時に、酒ばかり呑んでいて観測を怠った罪で、観測係の羲和という男が斬首されたという<ref group="注">『[[尚書]]』「胤徵」。ただしこれの出典の箇所は後代の偽作と言われている</ref>。
 
[[夏 (三代)|夏]]王朝では、日食は「天狗食日」といい、霊獣の「天狗」(日本の[[天狗]]とは異なる)が日を食べて起こるとされ、緊急に部隊を編成して銅鑼を叩き、天狗を追い払わなくてはならなかった。最も早い日食の記録は『[[詩経]]』「小雅・十月」の「十月之交、朔月辛卯、日有食之、亦孔之丑」である。統計によれば、[[甲骨文字]]の記録を除いて、春秋時代から[[同治帝|同治]]11年まで([[紀元前8世紀|紀元前770年]] - [[1874年]])で、記録された日食は985回(その内誤りが8回)で、日再旦(日の出の時間に日食が発生し、あたかも日の出が2回あるように見える)という現象の記録もある。『乙巳占』で、[[李淳風]]は日食は天子が徳を失ったことの表れとした。日食はたいてい天子の死や国の滅亡を予告しており、兵乱や天下の大乱や死亡や失地を引き起こすとした。発生する災害の種類は天象の具体的な表現から分かるとした。例えば日食が上部から始まれば天子の政に誤りがあり、横から始まれば内乱や大きな兵乱が起こり、新たに天子が立つ兆しとし、下から始まれば妃や大臣が自ら恣とするとした。漢の[[張衡]]は、「靈憲」のなかで日食と[[月食]]に対して合理的な科学解釈を提出し、原理を説明をした。[[漢]]代の[[京房]]は水盆で日食を観測し、直接太陽を見ることによって目を傷つけるのを避けた。後代、水は油に代わった。[[元 (王朝)|元]]代の天文学者[[郭守敬]]は、独自に開発した仰儀を用いて観測した。
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; [[1183年]][[11月17日]]([[寿永]]2年[[10月1日 (旧暦)|閏10月1日]]):金環食
: [[平家物語]]や[[源平盛衰記]]に記されている[[水島の戦い|水島の合戦]]のさなかに起こった日食。水島での食分は0.93とされる。[[陰陽寮]]を擁する朝廷側の平家はこの日、日食が起こることを知っていて、太陽が欠けていくことに恐れ混乱する木曽源氏に対して戦いを有利に進め平家が勝利したという説もある。以下は、源平盛衰記の記述。
: 「寿永二年閏十月一日(1183年11月17日)、水島にて源氏と平家と合戦を企つ。城の中より 勝ち鼓をうってののしりかかるほどに、天俄(にわか)に曇て、日の光もみえず、闇の夜のごとくなりたれば<ref group="注">「闇の夜のごとく」は皆既食のようであるが、実際は金環食であるので誇張表現。夕暮れ程度の明るさはあった。</ref>、源氏の軍兵ども日食とは知らず、いとど東西を失いて、舟を退いていずちともなく風にしたがいてのがれゆく。平氏の兵(つわもの)どもはかねて知りにければ、いよいよ時(の声)をつくりて、重ねて攻め戦う。」
 
== 日食予報 ==
古代において、日食は重大な関心を持たれていた。中国においては[[1994年]]に存在が確認された「[[上博楚簡]]」と呼ばれる竹簡の中に『競建内之』と称される物があり、[[斉 (春秋)|斉]]の[[桓公 (斉)|桓公]]が皆既日食を恐れて[[鮑叔]]の諫言を聞いたという故事が載せられている<ref group="注">『[[春秋左氏伝]]』に類似した内容の記事が[[昭公 (魯)|昭公]]26年([[516年]])の条に載せられているが、桓公ではなく[[景公 (斉)|景公]]のこととされ、かつ公が恐れたのは[[彗星]]とされている。だが、魯国の記録とされている『[[春秋]]』経本文には、対応する彗星に関する記事は無いこと(短時間かつ地域が限定される日食と違い、彗星ならば数日間にわたって地球上の広範な地域で観測可能である)、そもそも「彗星」という呼称は戦国時代以後に発生したもので当該記事以外の『左氏伝』の記事では[[春秋時代]]当時の呼称である「星孛」で統一されていることから、『左氏伝』の記事は元は桓公と日食の話であったものが戦国時代以後に景公と彗星の話として誤って混入された可能性が高いとされる。また、[[小沢賢二]]は戦国時代に日食予報が行われるようになったことで日食に対する見方が変化したことも日食→彗星への変化の一因としている。(小沢賢二「春秋の暦法と戦国の暦法」(初出:『中国研究集刊』45号(大阪大学、[[2007年]])/所収:小沢『中国天文学史研究』(汲古書院、[[2010年]]) ISBN 978-4-7629-2872-7 第4章))</ref>。『[[史記]]』においては専横を敷いていた[[前漢]]の最高権力者[[呂雉|呂后]]が日食を目の当たりにし「悪行を行ったせいだ」と恐れ、『[[晋書]]』天文志では太陽を君主の象徴として日食時に国家行事が行われれば君主の尊厳が傷つけられて、やがては臣下によって国が滅ぼされる前兆となると解説しており予め日食を予測してこれに備える必要性が説かれている。中国の日食予報は[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]から行われていたが、[[三国時代 (中国)|三国時代]]に編纂された[[景初暦]]において高度な予報が可能となった。
 
このため、[[日本]]の[[朝廷]]でも[[持統天皇]]の時代以後に[[暦博士]]が日食の予定日を計算し[[天文博士]]がこれを観測して[[天文密奏|密奏]]を行う規則が成立した。[[養老律令]]の儀制令・[[延喜式]][[陰陽寮]]式には暦博士が毎年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]に陰陽寮に今年の日食の予想日を報告し、陰陽寮は予想日の8日前までに[[中務省]]に報告して当日は国家行事や一般政務を中止したとされている。[[六国史]]には多くの日食記事が掲載されているが、実際には起こらなかった日食も多い。ただしこれは日食が国政に重大な影響を与えるとする当時の為政者の考えから予め多めに予想したものがそのまま記事化されたためと考えられ、実際に日本の[[畿内]](現在の[[近畿地方]])で観測可能な日食(食分0.1以上)については比較的正確な暦が使われていた[[奈良時代]]・[[平安時代]]前期の日食予報とほぼ正確に合致している。<!-- 参照:細井浩志『古代の天文異変と史書』(吉川弘文館、2007年)ISBN 978-4-642-02462-4 -->
 
[[1183年]]の[[治承・寿永の乱]]の[[水島の戦い]]では戦闘中に金環日食が発生し、[[源氏]]の兵が混乱して[[平氏]]が勝ったと[[源平盛衰記]]などの史料に記されている<ref group="注">源平盛衰記には、「天にわかに曇り日の光も見えず、闇の夜のごとくなりたれば、源氏の軍兵ども日食とは知らず、いとど東西を失って」とある。</ref>。当時、平氏は公家として暦を作成する仕事を行なっていたことから平氏は日食が起こることを予測しており、それを戦闘に利用したとの説がある<ref>{{Cite news
| url = http://mainichi.jp/area/okayama/news/20120519ddlk33040517000c.html
| title = スコープ2012:21日に金環日食 源平水島合戦、勝敗分けた天文知識 日食予測、平家が勝利 /岡山
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
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