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[[1125年]]、[[遼]]が[[金 (王朝)|金]]によって滅ぼされると、その一部を率いた[[耶律大石]]が[[モンゴル高原]]において可汗を称したが、[[1130年]]にまた金の攻撃を受けて[[中央アジア]]に逃れてきた。耶律大石はまず[[ビシュバリク]]を拠点とする天山ウイグル王国を臣従させ、[[1132年]]には天祐皇帝に即位して[[西遼]]を建国した。この頃にカルルクも西遼の支配下に入ったものと思われる。
 
[[1134年]]、カルルクは[[{{仮リンク|カンクリ]]|zh|康里|en|Kankalis}}とともに反乱を起こしたが、耶律大石によって鎮圧された。耶律大石はこの地の北辺を西遼の直轄地と定め、[[ベラサグン]]へ遷都し、ベラサグンをフスオルドと改称した。以降も、カルルクは西遼(カラ・キタイ)の属国となる。
 
===チンギス・カンとカルルク===