「班田収授法」の版間の差分

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班田収授は、[[奈良時代]]最末期になると、[[浮浪・逃亡]]する[[百姓]]の増加や、そうした百姓を[[荘園 (日本)#初期荘園|初期荘園]]が受け入れたことを背景として、次第に弛緩し始めた。そのため、[[桓武天皇]]は6年1班を12年1班に改め、班田収授の維持を図った。しかし、田地の不足、班田手続きの煩雑さ、偽籍の増加等により、平安時代初期には班田収授が実施されなくなった。[[902年]]([[延喜]]2年)、[[醍醐天皇]]により班田が行われたが、実質的にこれが最後の班田となった<ref>ただし、[[914年]](延喜14年)及び[[926年]]([[延長 (日本)|延長]]4年)の班田については、前後に班田の実施を前提とした田地に関する太政官符が出されている(『別符類聚抄』所収延喜14年8月8日官符及び『政事要略』所収延長3年12月14日官符)ことから、一部実施されたとする説もある(佐々木宗雄『平安時代国政史研究』校倉書房、2001年)。更に班田制を土地認定機能とそれに基づいた土地分配機能からなるとする観点から、前者に基づく校田帳の作成・提出とこれに基づく[[勘出]]が[[天慶]]年間まで続いていたことが確認できる([[承暦]]2年作成『出雲国正税返却帳』)ことから、班田収授が実施されなくても10世紀前半まではシステムとしての班田制は維持されていたという考えがある(三谷芳幸『律令国家と土地支配』吉川弘文館、2013年)。</ref>。
 
班田収授は唐の均田制を参考にしたものであるが、その手本となった唐が[[780年]]に[[両税法]]を施行し既に均田制が崩壊しており、このような制度を当時の日本が導入する事自体に無理があったと言える。そもそも、均田制や租庸調は粟を主食・徴税対象としていた華北・中原(旧[[北朝 (中国)|北朝]]地域)の支配に則した制度であり、稲を主食・徴税対象としていた華中・華南(旧[[南朝 (中国)|南朝]]地域)では完全に実施されていなかった可能性もあり、日本の班田収授法は牛が耕作に広く導入されていた華中・華南の水田耕作規模と比較しても過大であったとする指摘もある<ref>古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年 ISBN 978-4-639-02208-4 P68-72・508-510</ref>。また、班田収授法に基づいて班給・収公される「公地」が、本当に実態として存在したのかにも疑問が呈されている([[公地公民制]]を参照の事)。
 
班田収授が行われなくなって以降、それ以前に班給された「公地」は、実質上農民の私有地となっていった。そして最終的には[[国衙領]]として、国司の領地のごとき存在となっていく([[荘園公領制]])。