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[[鳥取県立鳥取西高等学校|旧制鳥取第一中学校]]で[[全国高校野球選手権大会|夏の甲子園]]に2回出場。
 
[[1937年]]に旧制[[関西大学]]へ進学するが、同年[[8月]]に中退して[[大和軍|イーグルス]]に入団。4番打者として一塁手と投手を兼任し、[[1938年]]秋のシーズンには[[防御率]]1.98でリーグ3位、[[1939年]]には[[打率]].282でリーグ8位を記録するなど、層の薄いチームにあって投打の中心として活躍。内野手から送球を受ける際、地面に着くほど両足を前後に大きく広げ、どんな球にも吸い付くように捕球する完璧な一塁の守備は「'''タコ足'''」「'''タコの中河'''」と呼ばれ、それを見るために球場に足を運ぶ[[ファン]]が多かったと言われている。内野手がゴロを捕るとスタンドから「悪送球しろ!」というヤジが飛び、正しく送球されるとブーイングが起こったほどである。球が収まりやすいように、ミットの親指と人差し指の間を網状に加工しており、その流れは現在の[[ミット|ファーストミット]]に受け継がれている。
 
投手としては[[1941年]][[6月22日]]の対[[名古屋軍]]戦で[[石原繁三]]との継投[[ノーヒットノーラン]]を記録したこともあるが、この年のシーズンを最後に応召。[[1944年]]に[[ルソン島]]沖で戦死した。[[1986年]]に[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入り。
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[[東京ドーム]]敷地内にある[[鎮魂の碑 (日本プロ野球)|鎮魂の碑]]に、彼の名前が刻まれている。
 
== プレースタイル ==
==詳細情報==
内野手がゴロを捕るとスタンドから「悪送球しろ!」というヤジが飛び、正しく送球されるとブーイングが起こったほどの一塁守備の名手だった。球が収まりやすいように、ミットの親指と人差し指の間を網状に加工しており、その流れは現在の[[ミット|ファーストミット]]に受け継がれている。[[伊東一雄]]は小学生時代に憧れたプロ野球選手として名を出している。「後年、[[メジャーリーグベースボール|大リーグ]]の上手い一塁手をかなり目にしたが、中河の方がずっと上手かった、と今でも思っている」と述べている。ショートバウンド捕球では内野手からの送球に対し、右手のファーストミットをバーンと地べたに叩き付ける。送球を後逸したかのようなフリをして後ろを向く。ところが球はしっかりと網に引っ掛かるというような芸当も見せていた<ref>{{Cite book|author=伊東一雄|title=[[メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事]]|publisher=[[サンケイスポーツ]]|page=324}}</ref>。
 
== 詳細情報 ==
=== 年度別打撃成績 ===
{| {{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球}}