「栃赤城雅男」の版間の差分
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'''栃赤城 雅男'''(とちあかぎ
== 来歴・人物 ==
中学では水泳部、[[群馬県立沼田高等学校|群馬県立沼田高校]]では柔道部に所属
[[1973年]]1月場所にて、18歳で[[初土俵]]。翌3月場所、「金谷」の四股名で[[序ノ口]]に付き、それから僅か1年半ほどで[[幕下]]に昇進した。
[[1973年]]1月場所に[[初土俵]]を踏んだ。初土俵から約1年半で[[幕下]]に昇進。幕下上位で一度は跳ね返されたものの、[[1976年]]11月場所に[[十両]]に昇進。十両を3場所で通過し、[[1977年]]5月場所には新入幕を果たした。華麗な取り口から「'''サーカス相撲'''」の異名をとり、長く[[幕内]]上位で活躍。本場所の幕内の取組で、[[決まり手]]としては珍しい「[[ちょん掛け]]」や「[[逆とったり]]」、「[[腕捻り]]」で勝ったりもした。▼
幕下上位の壁に一度は跳ね返されたものの、[[1976年]]11月場所で[[十両]]に昇進。
[[1979年]]11月場所には、[[輪島大士|輪島]]、[[若乃花幹士 (2代)|若乃花]]、[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]の3横綱から[[金星 (相撲)|金星]]を獲得するなど上位力士相手でも安定した成績を残した。この場所は4横綱であり、残る[[北の湖敏満|北の湖]]を倒せば史上初の一場所四金星の記録を打ち立てるところであった。<ref>尚、1場所3金星獲得を果たした力士の中でも栃赤城を除いて[[若乃花幹士 (初代)|若ノ花]]、[[朝潮太郎 (3代)|朝潮]]、[[大乃国康|大ノ国]]の3人全員が横綱まで昇進している。</ref>▼
十両は3場所で通過し、[[1977年]]5月場所、22歳で新入幕を果たした。
一時は[[関脇]]に定着し[[増位山太志郎|増位山]]、[[蔵間竜也|蔵間]]、[[玉ノ富士茂|玉ノ富士]]、[[琴風豪規|琴風]]、[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]らと共に[[大関]]候補として期待された時期もあったが、両足首の故障で昇進はならなかった。その後、[[糖尿病]]を患い精彩を欠く相撲が多くなり幕内と十両を往復する生活が続いた。やがて十両でも勝ち越すことが出来なくなり、[[1985年]]7月場所には幕下に陥落、一場所で十両に復帰したもののまたすぐに陥落した。▼
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▲[[1979年]]11月場所
廃業後は実家の呉服店を手伝っていたが、兄弟子であった[[山分]]親方(元[[前頭]]・[[栃富士勝健|栃富士]])とのゴルフ中に倒れ急死。[[急性心筋梗塞]]だった。そのあまりにも侘しい死は、引退後のプロスポーツ選手のあり方についての問題提起となった。▼
▲一時は[[関脇]]に定着し、[[増位山太志郎|増位山]]
その後、[[糖尿病]]を患い精彩を欠く相撲が多くなり、幕内と十両を往復する時期が続いた。やがては十両でも勝ち越すことができなくなり、[[1985年]]7月場所では幕下にまで陥落。1場所で十両に復帰したものの、1勝14敗と大負けして、またすぐに幕下に落ちた。
その後も幕下で長く相撲を取り続けたが、引退も考えていた時に師匠・春日野親方(元栃錦)が病に伏していたため、「師匠に、元気な姿を見てもらいたい」と取り続けた。
しかし[[1990年]]1月場所中に師匠が死去したため、同場所限りで[[廃業]]を決意した。ただし、廃業届の提出が遅れたため、翌3月場所では東[[三段目]]4枚目に「栃赤城」の四股名が残った。
なお、元関脇が三段目まで陥落したのは[[出羽ヶ嶽文治郎|出羽ヶ嶽]]以来、久々のことであった。
諸事情により引退相撲が行えず、[[断髪式]]は、故郷・群馬県[[前橋市]]内の[[ホテル]]にて同年2月に執り行われた。
▲廃業後は実家の呉服店を手伝っていたが、1997年8月18日未明に兄弟子であった[[山分]]親方(元[[前頭]]3・[[栃富士勝健|栃富士]])とのゴルフ中に倒れ、急逝した。死
そのあまりにも侘しい死は、引退後のプロスポーツ選手のあり方についての問題提起となった。
== エピソード ==
{{雑多な内容の箇条書き|date=2010年1月|section=1}}
* 柔道を経験しているためか、右手・左手・右足の力が左足に比べて異様に強く、極めてバランスが悪かった。得意な決まり手は、小手投げ・[[とったり]]であった。
* [[小股掬い]]や[[四十八手#五輪砕き|五輪砕き]]など
* ヘビースモーカーで、[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]に「禁煙すれば、横綱も狙えるのに」とまで言われた。これを受けて、「禁煙して横綱だったら、煙草を喫いまくっての幕内の方が良いです」と答えたと言われる。
* [[タニマチ]](後援者のこと)が大嫌いで、ほとんど付き合わなかった。そのため、[[年寄名跡]]を取得することができず、廃業の憂き目を
* [[群馬県]]出身の幕内力士は、[[1912年]]5月場所
* [[バロック音楽]]の鑑賞が趣味で、オーディオ機器に詳しかった。
* [[筒井康隆]]の著作を愛読していた。
* 終生独身であったが
* [[昭和天皇]]は、栃赤城の大ファンであった。[[天覧相撲]]で栃赤城が休場した場所などは、説明役で栃赤城の親方である春日野理事長(元[[栃錦]])に、昭和天皇が栃赤城の体調を心配する言葉をかけることがあったほどだった。
* [[昭和天皇]]のエピソードにあるように人気力士であり、全盛期は大関候補に何度も
* [[千代の富士貢|千代の富士]]に強く、15回対戦して8勝7敗と千代の富士の横綱昇進後に対戦があった関脇以下の力士としては、唯一勝ち越している。
* [[あんパン]]が大好きで、支度部屋でもよく食べていた(現在、支度部屋では飲食禁止)。また、柄パンを愛用していた。
*2013年1月3日放
== 主な成績・記録 ==
* 通算成績:556勝543敗46休 勝率.506
* 現役在位:104場所
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