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|作成日時 = [[2013年]][[1月3日]]
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'''栃赤城 雅男'''(とちあかぎ まさお、[[1954年]][[10月31日]] - [[1997年]][[8月18日]])は、[[群馬県]][[沼田市]]出身の元で、[[春日野部屋]]に所属した[[大相撲]][[力士]]。[[春日野部屋]]所属である。最高位は東[[関脇]]。本名は'''金谷 雅男'''(かなや まさお)。身長180cm、体重138kg。得意手は右四つ、[[小手投げ]]、腕捻り、掛け投げ。
 
== 来歴・人物 ==
中学では水泳部、[[群馬県立沼田高等学校|群馬県立沼田高校]]では柔道部に所属。柔道でし、高校時代は[[国民体育大会]]群馬県代表として出場したこともあった。柔道の活躍が[[春日野]]親方(元[[横綱]]・[[栃錦清隆|栃錦]])の目に留まり再三勧誘され、高校卒業直前に春日野部屋入門することとなった
 
[[1973年]]1月場所にて、18歳で[[初土俵]]。翌3月場所、「金谷」の四股名で[[序ノ口]]に付き、それから僅か1年半ほどで[[幕下]]に昇進した。
[[1973年]]1月場所に[[初土俵]]を踏んだ。初土俵から約1年半で[[幕下]]に昇進。幕下上位で一度は跳ね返されたものの、[[1976年]]11月場所に[[十両]]に昇進。十両を3場所で通過し、[[1977年]]5月場所には新入幕を果たした。華麗な取り口から「'''サーカス相撲'''」の異名をとり、長く[[幕内]]上位で活躍。本場所の幕内の取組で、[[決まり手]]としては珍しい「[[ちょん掛け]]」や「[[逆とったり]]」、「[[腕捻り]]」で勝ったりもした。
 
幕下上位の壁に一度は跳ね返されたものの、[[1976年]]11月場所で[[十両]]に昇進。
[[1979年]]11月場所には、[[輪島大士|輪島]]、[[若乃花幹士 (2代)|若乃花]]、[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]の3横綱から[[金星 (相撲)|金星]]を獲得するなど上位力士相手でも安定した成績を残した。この場所は4横綱であり、残る[[北の湖敏満|北の湖]]を倒せば史上初の一場所四金星の記録を打ち立てるところであった。<ref>尚、1場所3金星獲得を果たした力士の中でも栃赤城を除いて[[若乃花幹士 (初代)|若ノ花]]、[[朝潮太郎 (3代)|朝潮]]、[[大乃国康|大ノ国]]の3人全員が横綱まで昇進している。</ref>
 
十両は3場所で通過し、[[1977年]]5月場所、22歳で新入幕を果たした。
一時は[[関脇]]に定着し[[増位山太志郎|増位山]]、[[蔵間竜也|蔵間]]、[[玉ノ富士茂|玉ノ富士]]、[[琴風豪規|琴風]]、[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]らと共に[[大関]]候補として期待された時期もあったが、両足首の故障で昇進はならなかった。その後、[[糖尿病]]を患い精彩を欠く相撲が多くなり幕内と十両を往復する生活が続いた。やがて十両でも勝ち越すことが出来なくなり、[[1985年]]7月場所には幕下に陥落、一場所で十両に復帰したもののまたすぐに陥落した。
 
[[1973年]]1月場所に[[初土俵]]を踏んだ。初土俵から約1年半で[[幕下]]に昇進。幕下上位で一度は跳ね返されたものの、[[1976年]]11月場所に[[十両]]に昇進。十両を3場所で通過し、[[1977年]]5月場所には新入幕を果たした。華麗な取り口から「'''サーカス相撲'''」の異名をとり、長く[[幕内]]上位で活躍。本場所の幕内の取組で、[[決まり手]]としては珍しい「[[ちょん掛け]]」や「[[逆とったり]]」、「[[腕捻り]]」で勝ったりもした。
その後も幕下で長く相撲を取り続けたが、引退も考えていた時に師匠・春日野親方が病に伏していたため、「師匠に元気な姿を見てもらいたい」と取り続けた。しかし[[1990年]]1月場所中に師匠が死去したため、その場所限りで廃業した。ただし、廃業届の提出が遅れたため、翌3月場所の番付は東[[三段目]]4枚目に名前が残った。元関脇が三段目まで陥落したのは[[出羽ヶ嶽文治郎|出羽ヶ嶽]]以来、久々の事であった。
 
[[1979年]]11月場所は、[[輪島大士|輪島]][[若乃花幹士 (2代)|若乃花]][[三重ノ海剛司|三重ノ海]]の3横綱から[[金星 (相撲)|金星]]を獲得するなど上位力士相手でも安定した成績を残した。この場所は4横綱であが出場しており、残る[[北の湖敏満|北の湖]]を倒せば史上初の一場所四金星の記録を打ち立てるところであった。<ref>尚、1場所3金星獲得を果たした力士の中でも栃赤城を除いて[[若乃花幹士 (初代)|若ノ花]]、[[朝潮太郎 (3代)|朝潮]]、[[大乃国康|大ノ国]]の3人全員が横綱まで昇進している。</ref>
廃業後は実家の呉服店を手伝っていたが、兄弟子であった[[山分]]親方(元[[前頭]]・[[栃富士勝健|栃富士]])とのゴルフ中に倒れ急死。[[急性心筋梗塞]]だった。そのあまりにも侘しい死は、引退後のプロスポーツ選手のあり方についての問題提起となった。
 
一時は[[関脇]]に定着し[[増位山太志郎|増位山]][[蔵間竜也|蔵間]][[玉ノ富士茂|玉ノ富士]][[琴風豪規|琴風]][[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]らと共に[[大関]]候補として期待された時期もあったが、両足首の故障で大関への昇進はならなかった。その後、[[糖尿病]]を患い精彩を欠く相撲が多くなり幕内と十両を往復する生活が続いた。やがて十両でも勝ち越すことが出来なくなり、[[1985年]]7月場所には幕下に陥落、一場所で十両に復帰したもののまたすぐに陥落した。
 
その後、[[糖尿病]]を患い精彩を欠く相撲が多くなり、幕内と十両を往復する時期が続いた。やがては十両でも勝ち越すことができなくなり、[[1985年]]7月場所では幕下にまで陥落。1場所で十両に復帰したものの、1勝14敗と大負けして、またすぐに幕下に落ちた。
 
その後も幕下で長く相撲を取り続けたが、引退も考えていた時に師匠・春日野親方(元栃錦)が病に伏していたため、「師匠に、元気な姿を見てもらいたい」と取り続けた。
 
しかし[[1990年]]1月場所中に師匠が死去したため、同場所限りで[[廃業]]を決意した。ただし、廃業届の提出が遅れたため、翌3月場所では東[[三段目]]4枚目に「栃赤城」の四股名が残った。
 
なお、元関脇が三段目まで陥落したのは[[出羽ヶ嶽文治郎|出羽ヶ嶽]]以来、久々のことであった。
 
諸事情により引退相撲が行えず、[[断髪式]]は、故郷・群馬県[[前橋市]]内の[[ホテル]]にて同年2月に執り行われた。
 
廃業後は実家の呉服店を手伝っていたが、1997年8月18日未明に兄弟子であった[[山分]]親方(元[[前頭]]3・[[栃富士勝健|栃富士]])とのゴルフ中に倒れ逝した。因は、[[急性心筋梗塞]]であった。そのあまりにも侘しい死は、引退後のプロスポーツ選手のあり方についての問題提起となった享年42
 
そのあまりにも侘しい死は、引退後のプロスポーツ選手のあり方についての問題提起となった。
 
== エピソード ==
{{雑多な内容の箇条書き|date=2010年1月|section=1}}
* 柔道を経験しているためか、右手・左手・右足の力が左足に比べて異様に強く、極めてバランスが悪かった。得意な決まり手は、小手投げ・[[とったり]]であった。
* [[小股掬い]]や[[四十八手#五輪砕き|五輪砕き]]など珍しい技をよく使うことでも知られた。その一方で[[立合い]]が雑であったことや攻め込まれてから技を繰り出すことが多かったことが嫌われたのか、殊勲賞・敢闘賞を各4回受賞しているにもかかわらず技能賞は1度も受賞できなかった。
* ヘビースモーカーで、[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]に「禁煙すれば、横綱も狙えるのに」とまで言われた。これを受けて「禁煙して横綱だったら、煙草を喫いまくっての幕内の方が良いです」と答えたと言われる。
* [[タニマチ]](後援者のこと)が大嫌いでほとんど付き合わなかった。そのため、[[年寄名跡]]を取得することができず、廃業の憂き目をた。
* [[群馬県]]出身の幕内力士は[[1912年]]5月場所で入幕した[[白梅文治郎|白梅]]以来、ちょうど65年ぶりだった。その後群馬県からは[[起利錦利郎|起利錦]]、[[琴錦功宗|琴錦]]、[[琴稲妻佳弘|琴稲妻]]、[[湊富士孝行|湊富士]]らが出た。
* [[バロック音楽]]の鑑賞が趣味で、オーディオ機器に詳しかった。
* [[筒井康隆]]の著作を愛読していた。
* 終生独身であったが結婚願望はあったようで、週刊誌の『あの人は今』に登場した際、「嫁さん募集中って書いといてね。頼むよ」と最後にコメントしている。
* [[昭和天皇]]は栃赤城の大ファンであった。[[天覧相撲]]で栃赤城が休場した場所などは、説明役で栃赤城の親方である春日野理事長(元[[栃錦]])に、昭和天皇が栃赤城の体調を心配する言葉をかけることがあったほどだった。
* [[昭和天皇]]のエピソードにあるように人気力士であり、全盛期は大関候補に何度もげられた。しかし師匠の[[春日野親方]](元[[栃錦]]))にはその取り口はほとんど評価されず、「あいつ(栃赤城)が大関になったら、逆立ちして土俵を一周してやるよ」とっていた。
* [[千代の富士貢|千代の富士]]に強く15回対戦して8勝7敗と千代の富士の横綱昇進後に対戦があった関脇以下の力士としては唯一勝ち越している。
* [[あんパン]]が大好きで、支度部屋でもよく食べていた(現在、支度部屋では飲食禁止)。また柄パンを愛用していた。
*2013年1月3日放[[マツコ&有吉の怒り新党]] お正月スペシャルのコーナー、[[マツコ&有吉の怒り新党#番組コーナー|新・3大〇〇調査会]]([[テレビ朝日]])にて、「日本人が知っておくべき!新・3大土俵際の魔術師・栃赤城の取組」と題して、1979年(昭和54年)名古屋場所6日目の対貴ノ花戦(決まり手:小手投げ)、1980年(昭和55年)名古屋場所13日目の対千代の富士戦(決まり手:すくい投げ)、1990年(平成2年)初場所12日目の対荒駒戦(決まり手:五輪砕きからの押し出し)が[[やくみつる]]の選により紹介された。
 
== 主な成績・記録 ==
* 通算成績:556勝543敗46休 勝率.506
* 現役在位:104場所