「楊開慧」の版間の差分

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同年冬、楊開慧は中国社会主義青年団に加入した。[[1921年]](民国10年)、[[中国共産党]]湘区党委員会で機密・交通に関する連絡事務を担当する。同年冬、正式に共産党に加入した。[[1924年]](民国13年)夏、[[上海市|上海]]に赴き、女性運動に従事している。[[1925年]](民国14年)2月に毛沢東の下に戻り、毛を補佐して農民夜学の創設に取り組んだ。10月、[[広州市|広州]]に移り、女性運動に再び参加している。[[1926年]](民国15年)11月、長沙に戻る。まもなく毛沢東に随従して[[武漢市|武漢]]に移り、中央農民講習所を開き、女性運動を展開した。[[1927年]](民国16年)11月、長沙に引き返し、以後、共産党地下工作に従事している。
 
しかし[[1930年]](民国19年)10月、[[国民革命軍]]の一系統である湘軍(湖南軍)の指導者・[[何鍵]]により、楊開慧は毛岸英らと共に長沙で逮捕されてしまった。何からは毛との離婚と非難声明を出せば釈放すると誘われたが、楊は拒絶し、ついに長沙城門外で銃殺された。享年30。一報を聞いた毛は「彼女の死は百身を持ったとしても贖えぬ。」と嘆息したという。毛沢東にとって革命の同志であり理想の妻であった。毛沢東は晩年に女性秘書を楊開慧と同じ髪型にさせていた。なお毛は楊開慧の生存中[[1928年]]に3番目の妻[[賀子珍]]と結婚している。
 
=== 異説 ===