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{{ActorActress
| 芸名 = 川田 芳子
| ふりがな = かわだ よしこ
| 画像ファイル =
| 画像サイズ =
| 画像コメント =
| 本名 = 川田 芳子
| 別名 = 川上 芳子<!-- 別芸名がある場合記載。愛称の欄ではありません。 -->
| 出生地 = {{JPN}}・[[新潟県]][[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]]
| 死没地 = {{JPN}}・[[埼玉県]][[草加市]]
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| 没日 = 23
| 職業 = [[俳優]]
| ジャンル = [[映画]]、[[舞台]]
| 活動期間 =
| 活動内容 =
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| 家族 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = 『[[島の女]]』<br/>『母』<!-- 皆が認める代表作品を入力 -->
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
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| 備考 =
}}
'''川田 芳子'''('''かわだ よしこ'''、[[1895年]][[10月17日]] - [[1970年]][[3月23日]])は、大正・昭和期の[[俳優]]である。日本映画期の人気女優である。
 
== 来歴・人物 ==
[[Image:Yofu Gonin Onna.jpg|thumb|300px|映画『妖婦五人女』(1926年)宣伝用写真から。左から、[[栗島すみ子]]、[[松井千枝子]]、'''川田芳子'''(中央)、[[筑波雪子]]、[[柳さく子]]]]
 
[[1895年]](明治28年)[[10月17日]]、[[新潟市]]の[[花街]]・[[古町 (花街)|古町]]に踊りの師匠の娘として生まれ。11歳のとき、一家で上京し、藤間勘翁に師事するした。[[新橋 (花街)|新橋]]から[[芸妓]]になった後、[[川上貞奴]]の門入り預けられ、「川上芳子」の芸名で貞奴一座の『八犬伝墨田の高楼』([[帝国劇場]]で初舞台を踏んだ以降、貞奴と行動を共にばらく、[[新派]]の舞台で活躍した。
 
松竹の新派などを経て、[[1920年]](大正9年)、その美貌をかわれて創立早々の[[松竹|松竹キネマ蒲田撮影所]]にスターとして迎えられる。早速同年、[[ヘンリー・小谷]]監督の『[[島の女]]』に主演。[[松竹蒲田撮影所]]の最初の、スター女優の第1号して人気を博するなった。当時の人気俳優[[諸口十九]]とコンビを組み共演作を次々と発表、この二人の人気は、[[栗島すみ子]]・[[岩田祐吉]]のコンビと並んで松竹蒲田のドル箱コンビだった。
 
モダンな華々しさが魅力の栗島とは対照的に、純日本的なしとやかさを魅力に、日本的でおとなしいものの芯はしっかりした女性像を演じて、人気を保ち続け得、栗島、[[五月信子]]と並ぶ初期の松竹蒲田の看板女優として活躍した。[[賀古残夢]]監督の作品の常連だったが、賀古が松竹を退社した後は[[野村芳亭]]監督重用され、当時のベストセラーの[[鶴見祐輔]]の原作を映画化した[[1929年]](昭和4年)の[[野村芳亭]]監督の『母』では、万人の涙を誘った。また、『清水次郎長』などでは[[勝見庸太郎]]と共演。[[1923年]](大正12年)、[[関東大震災]]により撮影所が[[下加茂]]に移るが、翌年蒲田に戻り、川田もそれに準じた。その後、諸口とのコンビで『赤坂心中』などに主演したほか、主に時代劇で活躍した。1929年には、栗島、[[岩田祐吉]]、[[藤野秀夫]]らと共に大幹部に昇進した。
 
まだ[[1930年]](昭和5年)以降は人気絶頂だっ母親役で活躍しが、[[1935年]](昭和10年)送別映画『母の愛』を最後に映画界を引退した。引退後は日本舞踊[[市山流]]の名取などを務め、戦後に一時『[[鐘の鳴る丘]]』や『[[悲恋模様]]』などの映画に出演したこともあったが、その後は養女と二人でひっそりと暮らしていた。晩年はその養女にも先立たれ、最期は[[草加市]]のアパートで一人で迎えた。[[1970年]](昭和45年)[[3月23日]]、心臓麻痺により死去。74歳没。遺体は翌日、アパートの大家によって発見された。
 
==代表作==