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[[ファイル:Solomonlosovsky.jpg|thumb|175px|right|ソロモン・ロゾフスキー、1926年頃]]
 
'''ソロモン・アブラモヴィッチ・ロゾフスキー'''({{Lang-ru|Соломо́н Абра́мович Лозовский}} {{lang-en|Solomon Abramovitch Lozovsky}}、[[1878年]][[3月16日]] - [[1952年]][[8月12日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[労働運動]]家、[[政治家]]。
 
== 経歴・人物 ==
[[ファイル:Matsuoka signs the Soviet–Japanese Neutrality Pact-1.jpg|thumb|175px|right|[[日ソ中立条約]]調印に立ち会うロゾフスキー(後列から87人目の、左手を挙げている人物)。右へ外相[[ヴャチェスラフ・モロトフ|モロトフ]]、党書記長スターリン。署名するのは日本外相[[松岡洋右]]。1941年4月13日、モスクワ。]]
[[ロシア帝国]][[エカテリノスラフ県]](現在の[[ウクライナ]]南部)の村で、[[ユダヤ人]]の教師の子として生まれた。
 
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[[1920年]]より[[赤色労働組合インターナショナル]](プロフィンテルン)の創立に参加。[[1921年]]7月の第1回大会でその責任者となり、[[1939年]]に解体されるまでプロフィンテルンを指導した。
 
[[1927年]][[ソビエト連邦共産党]]中央委員候補。[[コミンテルン]]執行委員、1939年-[[1946年]]極東関係担当の外務人民委員代理(副外相)、[[1941年]]-1946年ソビエト連邦情報局総裁代理、1946年同総裁を歴任した。
 
[[1949年]][[ヨシフ・スターリン]]により追放されたが、没後[[1956年]]に名誉回復された。