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JAITIDO1992 (会話 | 投稿記録)
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'''大久保 忠行'''(おおくぼ ただゆき、生年不詳 - [[元和 (日本)|元和]]3年[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]([[1617年]][[8月7日]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]の武士、[[治水]]家。[[宇津忠茂]]の五男。[[大久保忠俊]]・[[大久保忠員]]の弟。妻は[[遠山氏]]の娘・伊可。通称は藤五郎、主水(もんと)。
 
[[三河国]]上和田の武士。[[徳川家康]]に仕え、[[永禄]]3年([[1560年]])に三河国[[宝飯郡]]赤坂郷で領地300石を与えられる<ref>阿部正信編『駿国雑志』吉見書店、1911年 316頁</ref>。永禄6年([[1563年]])、[[三河一向一揆]]に三河大久保党三十六騎の一人として出陣するが、鉄砲の弾が腰に当たって落馬・負傷し、以後歩行が不自由となる。
 
これにより実質、侍としてのいわゆる「槍働き」ができなくなり、戦役を免除され三河国上和田に住んだ。何処で覚えたのか定かではないが、忠行は菓子司(類の制作ができ、この技術により家康の陣営に伺候して茶菓(餅)を献上する役目、いわゆる菓子司となった忠行の作った餅は駿河餅、ないしは三河餅と呼ばれ、この餅を含めた各種の菓子は家康の嗜好に合ったらしく、度々忠行にこれを求めていた、また家康は毒殺を恐れて餅を食べなかったが、忠行から献上された際には彼を信じて食べていた<ref>『大日本人名辭書』経済雑誌社、1896年 443-444頁</ref>、などの話が残る
 
[[三方ヶ原の戦い]]の際には従軍する代わりに、出陣に際し六種の菓子を家康に献じ、その後それが家例となった<ref>『下谷区史』下谷区、1935年 1202頁</ref>。
 
[[天正]]18年([[1590年]])7月12日、江戸城下の上水工事の命を受ける<ref>「天正日記」</ref>。その後、約3か月で小石川目白台下の河流を神田方面に通し、これは後の[[神田上水]]の元となったとされている。また、この功績により家康から「主水」の名を与えられたが、水が濁ることを嫌って「もんど」ではなく「もんと」と発音するように命じられた<ref>[http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E8%97%A4%E4%BA%94%E9%83%8E 朝日日本歴史人物事典]</ref>。
 
元和3年(1617年)7月6日死去。墓所は東京都[[台東区]][[谷中 (台東区)|谷中]]の[[瑞輪寺]]、戒名は清浄院蓮来日富。実子は無く、甥の[[大久保忠元|忠元]](兄の忠員の子)を養子とした<ref>阿部正信編『駿国雑志』吉見書店、1911年 318頁</ref>。その子孫は幕府御用達の菓子司となった
 
主水の子孫は代々「大久保主水」を名乗り、幕府御用達の菓子司となった。江戸城内での行事に使用する菓子類の制作時には、歴代の大久保主水が責任者となり采配した。
 
元和3年(1617年)7月6日死去。墓所は東京都[[台東区]][[谷中 (台東区)|谷中]]の[[瑞輪寺]]、戒名は清浄院蓮来日富。実子は無く、甥の忠元を養子とした<ref>阿部正信編『駿国雑志』吉見書店、1911年 318頁</ref>。その子孫は幕府御用達の菓子司となった。
 
[[大正]]13年([[1924年]])2月、贈[[従五位]]<ref>『贈位諸賢伝』第1巻 国友社、1927年 199頁</ref>。