「鎌倉幕府」の版間の差分

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=== 執権政治の確立 ===
[[1224年]]に北条義時、[[1225年]]に北条政子や[[大江広元]]といった幕府創業世代が死去し、義時の子[[北条泰時]]が執権となった。泰時は、世代交代期の混乱を防ぐため、叔父の[[北条時房]]を執権の補佐役といえる[[連署]]に当てるとともに、政治意思決定の合議機関である[[評定衆]]を設置し、集団指導体制を布いた。これには、基本的に鎌倉幕府は、鎌倉殿(将軍)と個々の御家人の主従関係によって成り立っているという事情がある。北条氏も鎌倉殿の家来のひとつに過ぎず、数ある御家人の第一人者であっても主君ではなかったのである
 
承久の乱後、急増した訴訟事件を公平に処理するため、泰時は明確な裁判基準を定めることとした。これが[[御成敗式目]]と呼ばれる法典([[武家法]])であり、平易で実際的な法令と評価されている。後の[[室町幕府]]も、この法令を原則として継承している。また、泰時は、式目制定に当たって、朝廷の司法権を侵害するものでないことを強調している。