「千田正」の版間の差分

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== 学生時代 ==
[[大正2年]]、郡立胆沢農業高等学校(現・[[岩手県立水沢農業高等学校]])に進み、水沢の祖母宅から通った。田んぼの耕し方さえ知らなかった千田は水稲、養蚕などの実習中に先生から「君は農業に向かない」と言われ、同校を中退した。その後、仙台商業学校(現・[[仙台市立仙台商業高等学校]])に入学した。大学進学も描いていた千田は仙台二中(現・[[宮城県仙台第二高等学校]])にも合格して最初は通っていた。しかし「そろばんを習えば家業に役立つだろう」との母の思いを受け入れ、2ヶ月後に仙台商へ編入。卒業までの5年間、水沢出身者のための学生寮「臥牛寮」から通った。通学の服装は着物に上等の靴、[[ステッキ]]。[[南部藩]]士の流れをくむ家柄であったことからか、千田は寮生から「わこ様」(いいところの息子の呼び名)と呼ばれていた。仙台商では、弁論部のリーダーとして活躍し天下国家を論じ、柔道にも挑んだ。また将来外国に渡ろうと女学院の院長の下で週3回レッスンに励んだ
 
その後、仙台商業学校(現・[[仙台市立仙台商業高等学校]])に入学した。大学進学も描いていた千田は仙台二中(現・[[宮城県仙台第二高等学校]])にも合格して最初は通っていた。しかし「そろばんを習えば家業に役立つだろう」との母の思いを受け入れ、2ヶ月後に仙台商へ編入。卒業までの5年間、水沢出身者のための学生寮「臥牛寮」から通った。通学の服装は着物に上等の靴、[[ステッキ]]。[[南部藩]]士の流れをくむ家柄であったことからか、千田は寮生から「わこ様」(いいところの息子の呼び名)と呼ばれていた。仙台商では、弁論部のリーダーとして活躍し天下国家を論じ、柔道にも挑んだ。また将来外国に渡ろうと女学院の院長の下で週3回レッスンに励んだ。
仙商の卒業時期を迎え、「世界で活躍してみたいなら東京へ出て早稲田大学に入ったらどうだ」と寮を通じた知人から口説かれ、[[大正9年]]、[[早稲田大学]][[商学部]]に入学。簿記など商業の基礎を仙商で習得済みの千田は柔道やホッケー、ボードなどに打ち込んだ。早大アイスホッケー部を創設させたのは千田である。アイスホッケーは慶應の独壇場だったが、千田が[[早慶戦]]を企画し、見事慶應を破った。千田はマネージャーだった。弁論が得意な千田は[[早大雄弁会]]にも籍を置いた。当時の弁論仲間には、[[浅沼稲次郎]]、[[三宅正一]]、[[平野力三]]らがいた。大学の講堂の建設資金集めを目的に岩手を遊説したこともあった。郷土に戻れば若者たちを集め話しをした。千田は商売に対する興味が強く、早大時代、海岸で漁業組合から船の帆を借りてテントを立て、氷店を開店。畑から失敬してきたスイカを添えたしゃれた[[かき氷]]をメニューとし、学生仲間のバイオリン演奏付きでムードを盛り上げた。客が次々に訪れ、店はにぎわった。ところが売値が安すぎ、収支決算は赤字。発想はいいが、金もうけとなると綿密な計算がにがてだった。のちに千田はケイ石採掘など山師的にいろいろな事業に手を出すが失敗は多かった。
 
仙商の卒業時期を迎え、「世界で活躍してみたいなら東京へ出て早稲田大学に入ったらどうだ」と寮を通じた知人から口説かれ、[[大正9年]]、[[早稲田大学]][[商学部]]に入学。簿記など商業の基礎を仙商で習得済みの千田は柔道やホッケー、ボードなどに打ち込んだ。早大アイスホッケー部を創設させたのは千田である。アイスホッケーは慶應の独壇場だったが、千田が[[早慶戦]]を企画し、見事慶應を破った。千田はマネージャーだった。弁論が得意な千田は[[早大雄弁会]]にも籍を置いた。当時の弁論仲間には、[[浅沼稲次郎]]、[[三宅正一]]、[[平野力三]]らがいた。大学の講堂の建設資金集めを目的に岩手を遊説したこともあった。郷土に戻れば若者たちを集め話しをした。千田は商売に対する興味が強く、早大時代、海岸で漁業組合から船の帆を借りてテントを立て、氷店を開店。畑から失敬してきたスイカを添えたしゃれた[[かき氷]]をメニューとし、学生仲間のバイオリン演奏付きでムードを盛り上げた。客が次々に訪れ、店はにぎわった。ところが売値が安すぎ、収支決算は赤字。発想はいいが、金もうけとなると綿密な計算がにがてだった。のちに千田はケイ石採掘など山師的にいろいろな事業に手を出すが失敗は多かった。
 
千田は商売に対する興味が強く、早大時代、海岸で漁業組合から船の帆を借りてテントを立て、氷店を開店。畑から失敬してきたスイカを添えたしゃれた[[かき氷]]をメニューとし、学生仲間のバイオリン演奏付きでムードを盛り上げた。客が次々に訪れ、店はにぎわった。ところが売値が安すぎ、収支決算は赤字。発想はいいが、金もうけとなると綿密な計算がにがてだった。のちに千田はケイ石採掘など山師的にいろいろな事業に手を出すが失敗は多かった。
 
早大を卒業した翌年の[[大正15年]]、千田は「世界を舞台に何かを吸収したい」と米国ハイドルバーグ大学に留学。1年後[[コロンビア大学]](ニューヨーク)に留学し[[経済学]]を専攻。さらに2年後には英国に渡り[[ケンブリッジ大学]]に入学するが気風が合わず、1週間後に[[ロンドン大学]]に入り直している。柔道5段の千田は、マンション管理人のロシア人に柔道を教え、地域では「けんか師」と呼ばれた。