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[[明治]]時代に至っても初期には梟示(きょうじ)と名を改めて引き続き行われていた。[[1874年]]の[[司法卿]][[江藤新平]]への処刑が有名である。[[1879年]]の明治12年[[太政官布告]]第1号により廃止された。なお、[[斬首刑]]は[[1882年]][[1月1日]]に施行された[[刑法 (日本)#旧刑法|旧刑法]]により廃止されるまで残る(梟首を伴わない斬首刑が最後に行われたのは[[1881年]])。
 
== 「梟首」の由来 ==
中国では、梟は親鳥を殺して食べる鳥と信じられており、親不孝、不義の象徴と見られていた。そのため、梟を殺して、斬首し、木に吊るすという習俗があった<ref>関・野口、88頁</ref>。また、「梟」という漢字も、「木に吊るされる鳥」を表している<ref>関・野口、88頁</ref>。転じて、首を斬ること、首を晒すことを「梟首」と呼ぶようになった。
 
== 獄門台 ==
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* [[下手人]]
* [[斬首刑]]
 
== 参考文献 ==
*[[関幸彦]]・[[野口実]]『吾妻鏡必携』(吉川弘文館) ISBN 978-4-642-07991-4
 
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