「フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン王)」の版間の差分

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| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[マリア・カロリーネ・フェルディナ・エスターライヒ (1801-1832)|マリア・カロリーネ・フォン・エスターライヒ]]
| 配偶者2 = [[マリア・アンナ・フォン・バイエルン (1805-1877)|マリア・アンナ・フォン・バイエルン]]
| 子女 =
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[[1797年]][[5月18日]]に[[ピルニッツ]]で、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]][[ザクセン君主一覧|選帝侯]][[フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ・クリスティアン]]の五男[[マクシミリアン・フォン・ザクセン (1759-1838)|マクシミリアン]]とその最初の妻であった[[パルマ公国|パルマ]][[パルマ公の一覧|公]][[フェルディナンド・ディ・ボルボーネ|フェルディナンド]]の娘[[カロリーナ・ディ・ボルボーネ=パルマ|カロリーナ]]の第三子として生まれた。
 
[[1819年]][[9月26日]]にフリードリヒ・アウグストは[[オーストリア帝国|オーストリア]][[オーストリア皇帝|皇帝]][[フランツ2世|フランツ1世]]の皇女[[マリア・カロリーネ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒ (1801-1832)|マリア・カロリーネ・フェルディナンデ]](1801年 - 1832年)と結婚した。さらにカロリーネと死別した後の[[1833年]][[4月24日]]に[[バイエルン王国|バイエルン]][[バイエルン国王|王]][[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]の王女[[マリア・アンナ・フォン・バイエルン (1805-1877)|マリア・アンナ]]と再婚した。しかし2人の妃との間に子供は生まれなかった。
 
1830年9月、フランスで起きた[[7月革命]]の影響でザクセンに革命騒乱が発生した際、父マクシミリアンから王太子の地位を譲られた。[[1831年]]に伯父のザクセン王アントンによって[[摂政]]に任命され、アントンが[[1836年]]に死去すると王位に即いた。フリードリヒ・アウグスト2世は憲法を制定するなど、はじめは自由主義的な姿勢をとったが、[[1848年革命]](3月革命)が勃発すると態度を変え、[[1848年]][[4月28日]]には議会を解散した。これは[[五月蜂起]]を招いたものの、暴動は速やかに鎮圧された。