「渋川尹繁」の版間の差分

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| 氏名 = 渋川尹繁
| 時代 = [[室町時代]]後期、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]前期
| 生誕 = 不詳<br>(※兄・万寿丸の生まれた[[応仁]]2年([[1468年]]) 以後)
| 生誕 = 不詳
| 死没 = [[天文 (日本)|天文]]3年([[1534年]])?
| 改名 = 刀祢王丸([[幼名]])→ 尹繁
| 別名 = 澁川刀禰王丸(幼名・旧字体表記)
| 別名 =
| 諡号 =
| 戒名 =
}}
 
'''渋川 尹繁'''(しぶかわ ただしげ)は、[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]前期の[[武将]]。[[室町幕府]]の[[九州探題]]。[[足利氏]]の一門[[渋川氏]]の出身。父は[[渋川教直]]。[[幼名]]は'''渋川刀祢王丸'''(とねおうまる)
 
== 生涯 ==
[[長享]]元年([[1487年]])、兄の[[渋川万寿丸|万寿丸]](享年20)が[[筑前国|筑前]][[亀尾城]]で家臣に裏切られて殺害されると渋川家当主となる。[[足利義稙|足利義尹]](のちの義稙)より[[偏諱]]を与えられ'''尹繁'''と名乗った
 
長享3年([[1489年]])[[少弐政資]]の嫡男・[[少弐高経|高経]]によって肥前守護所である[[肥前国|肥前]]綾部館を攻撃され、[[筑後国|筑後]][[犬塚城]]へ追われる。しかし、[[延徳]]3年([[1491年]])には高経の岳父[[大友政親]]によって犬塚城をも追われ、肥前[[勝ノ尾城]]へ移るなど渋川氏は滅亡寸前まで追い込まれた。この苦難の中で渋川氏が頼りとしたのは、西国の雄[[大内氏]]であった。
[[明応]]5年([[1496年]])肥前守護を名乗り翌明応6年([[1497年]])には[[大内義興]]の協力により政資・高経親子を自刃に追い込み、渋川氏は延命することができた。
 
明応9年([[1500年]])、義興によって大内氏へ身を寄せていた前[[征夷大将軍|将軍]][[足利義稙|足利義尹]](のちの義稙)に拝謁し、その[[偏諱]]を与えられて'''尹繁'''と名乗るとともに、義尹より正式に[[九州探題]]にも任じられた。その後[[肥前]][[養父郡]]綾部の肥前守護所へ再び入る。
 
しかし、[[永正]]元年([[1504年]])、少弐政資の3男・[[少弐資元|資元]]によって守護館およびその詰城であった[[綾部城]]・[[白虎山城]]を追われ九州探題職を子の義長に譲ったとされる。その後の動向は不明な点が多いが、後に[[少弐氏]]に通じた為、[[天文 (日本)|天文]]3年([[1534年]])に大内軍によって綾部館を攻められ自害したともいう。
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