「連合軍軍政期 (ドイツ)」の版間の差分

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=== 占領統治開始 ===
フレンスブルク政府はドイツの敗戦処理政府として存続することを望んだが、5月20日にソ連が彼らを政府として承認しない姿勢を明確にし、他の連合国も追随した。このため5月23日にフレンスブルク政府の閣僚は連合国に逮捕され、ドイツには政府が存在しない状態となった。6月5日、[[ベルリン]]において米・英・ソ・仏の軍事司令官による[[ベルリン宣言 (1945年)|ベルリン宣言]]が発表され、中央政府の不在と軍政開始が宣言された。8月2日の[[ポツダム会談]]ではベルリン宣言を確認し、諮問委員会にかわって四カ国外相が討議する{{仮リンク|外相理事会|en|Council of Foreign Ministers}}を設置することとなった。さらに占領政策の基本方針として「ドイツ管理機構に関する協定」([[ポツダム協定]])を策定し、「占領下のドイツは一つの経済単位として扱う」ことが決定された{{sfn|宮崎繁樹|1992|pp=57}}。しかし折からの[[冷戦]]勃発の影響で、統一的なドイツ統治は実行されず、協議を行う外相理事会も失敗を重ねた。各占領区域の軍政当局は、住民、地方と州政府に対して、それぞれ異なった政策を行った。
 
=== 西側とソ連の対立 ===
アメリカ政府は戦時中、ドイツの軍備および工業を解体してドイツを農業国へと変えるという懲罰的な[[モーゲンソー・プラン]]を立案していた。これはアメリカ政府内や連合国間で賛否両論をよんだが、占領後のアメリカ占領軍軍政の方針に影響を与えた。特に、1945年5月10日にトルーマン大統領が署名を行った「JCS1067」(統合参謀本部命令1067号)は、アメリカ占領当局はドイツ国民に対する経済支援や再建支援を一切行わないという内容の指令であった。またアメリカを含む連合国は占領当初、ドイツの工業生産の規模に上限をあてはめ、工業設備の解体に力を入れていた。これらにより占領下のドイツには貧困が蔓延し、占領当局に対するデモが起こったほか、占領当局もドイツが工業生産を再開することがヨーロッパ再建の助けになることを次第に認識するようになっていった。1947年にはJCS1067は撤廃され、アメリカ政府はヨーロッパおよびドイツ復興のための新たな政策を模索し始めた。
 
1948年、アメリカの[[ジョージ・マーシャル]]国務長官はヨーロッパの経済再建のため「[[マーシャル・プラン]]」を策定し、ヨーロッパ諸国への援助を行うこととなった。この計画の援助先にドイツも含まれていたが、ドイツの受け入れ体制を整える必要があった。このため1947年1月1日には米・英・仏三国占領地域の経済統合が行われ、さらに占領地域自体の統合管理も行われることとなった。1948年2月5日、まず最初にイギリス占領区とアメリカ占領区を統合して[[バイゾーン]]が形成され、2月23日にはフランス占領地域の統合も発表された{{sfn|宮崎繁樹|1992|pp=57}}。さらに英仏と[[ベネルクス]]三国、そして西側占領地域の代表による経済連携が強化される動きが強まった。ソ連はこの動きがポツダム協定違反であると反発し、自らの占領区域の通行規制を強化した。これらの対立によって3月28日には連合国管理理事会が事実上解散された{{sfn|宮崎繁樹|1992|pp=57-58}}。
 
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=== 食糧問題 ===
占領初期に実施されていた「JCS1067」(統合参謀本部命令1067号)がアメリカ占領軍当局からドイツ国民に対する一切の支援を禁じていたこともあり、占領下ドイツでの食料事情はかなり悪く、1946年春までアメリカ占領区域での1日あたり割り当て食料は公式には1,275キロ[[カロリー]](幾分かの地区は最低で700キロカロリーと考えられる)でしかなかった。このため、幾分かのアメリカ軍兵士がこの絶望的な状況で、「fra bait」(fraはフランクフルトのIATAコード、baitは餌のこと)として知られる軍から与えられる食料とタバコ(闇市では通貨として使用されていた)を使用して個人的利益を得た<ref>[[ニューヨーク・タイムズ]]、1945年6月25日版</ref>。一部のアメリカ軍兵士の中にはこの状況を利用してドイツ人少女に肉体関係を要求するものも現れたが、その結果として生まれた子をかかえたドイツ人シングルマザーに対する手当ての支給は行われなかった。
 
=== 私生児問題 ===
1950-1955年の間に連合国管理理事会は子どもの認知およびその生活費の支払いを請求する訴訟を禁止したその後、この方針は撤回されたが、西ドイツ法廷はアメリカ軍兵士を裁くことはほとんどできなかった。アメリカ兵士との間に生まれた子どものうち、約3パーセントがアフリカ系アメリカ兵との子どもであり、アメリカ軍兵士が責任を取るつもりのあった場合でも1948年までアメリカ軍内にあった異人種間婚姻の禁止のために認められず、俗に「Negermischlinge」(黒人混血児)と呼ばれた子どもは特に悲惨であった。
 
また、初期には「敵を援助する」という観点からアメリカ軍兵士がそれらの子供たちを認知、手当てを支給することも許されなかった。後に1946年1月に白系アメリカ軍兵士とオーストリア女性間の結婚が認められ、1946年12月にはドイツ人女性との結婚が認められるようになった。