「井伊直幸」の版間の差分

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直定は病気療養のため隠居を望んでおり、藩主の地位に未練はなく、就任早々他家から養子を取ることを模索しはじめた。直英はこれに焦り、取り乱したが、なすすべもなく家臣に諌められて神妙に待つしかなかった。幕府は井伊家の血筋を重視して他家からの養子を許さなかったため、直英は直定の養子となり、宝暦5年(1755年)に直定の再隠居に伴い、晴れて藩主となった。
 
宝暦9年([[1759年]])12月12日、将軍[[徳川家重]]の[[右大臣]]転任にともない、[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]主・[[松平容頌]]とともに朝廷への使者を命じられる。なお、この人選は幕閣に工作し、[[松平朝矩]]への内定を覆して実現したものであった。しかし宝暦10年([[1760年]])2月、養父・直定の病気を理由に使者を辞退、[[松平頼恭]]と交代する。同年4月25日、朝廷への使者の務めを終えた松平容頌は左少将に任官、直幸は官で序列を追い越されて、焦りを抱くようになる。同年9月6日、[[徳川家治]]の将軍宣下にともない、朝廷への使者を命じられる。その結果、同年12月6日、左少将に任官し、松平容頌と同格となる。同年、直英から直幸に改名した。
 
さらに、直幸は官位の上昇を目論む。宝暦13年([[1763年]])9月6日、[[徳川家基]]の山王社へのお宮参りに際し、井伊邸でもてなし、翌日、従四位上に昇進する。[[明和]]2年([[1765年]])、[[徳川家康]]の150回忌に際し、[[日光東照宮]]へ将軍の名代として参詣する。その際、幕府へ官位の昇進を願うものの、却下される。ただし、同年10月15日、翌年の家基の[[元服]]に際しての加冠役を命じられて、左中将に任官する。なお、同日、松平容頌は理髪役を命じられて、同じく左中将に任官している。