「那古野城」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
本文改変、カテゴリ改変
5行目:
 
== 歴史 ==
那古野は、元々[[駿河国|駿河]]の[[今川氏]]が一時尾張[[守護]]を兼ねていた時期に庶流の[[那古野氏]]が領有し、[[斯波氏]]が尾張を領有した後もこの地に留まっていた。[[大永]]年間([[1521年]] - [[1528年]])に今川氏親が尾張進出の拠点として、現在の名古屋市中心部が広がる熱田台地(名古屋台地)の西北端に築城した「柳ノ丸」を起源とする。[[今川氏]]の時代、この城の城主は氏親の一族で一説には那古野氏の家督を継いだともいわれている[[今川氏豊]]という人物であったと伝えられている。
 
[[1532年]]、[[勝幡城]]([[稲沢市]])の[[織田信秀]]は今川氏豊を滅ぼしてこの城を奪い、拠点を置いた。那古野城という城名はこのとき付けられたともいわれる。
11行目:
[[1534年]]生まれの信秀の嫡男、織田信長は那古野城で生まれた可能性が高いとされている。信秀は那古野城を幼い信長に譲り、自身は同じ台地の東南方を固めるために現在の[[真宗大谷派名古屋別院|真宗大谷派 名古屋別院]](名古屋市中区)の地に[[古渡城]]を築いてそこに移った。なお那古野城奪取は[[1538年]]説もあり、勝幡城で誕生ともいわれる。
 
[[1555年]]、信秀の後を継いでいた織田信長は、一族の[[織田信友]]を滅ぼして[[清洲城|清須城]]([[清須市]])に移った。信長が離れた後の那古野城は信長の叔父[[織田信光|信光]]、信長の重臣[[林秀貞]]らが一時入ったが、やがて廃城となった。
 
50年後の[[1609年]]、[[徳川家康]]がこの城の故地に目をつけ、名古屋城の築城に着手する直前には、[[鷹狩]]に使われるような荒れ野になっていたと伝えられている。
36行目:
[[Category:名古屋市中区の歴史]]
[[Category:今川氏|城なこやしよう]]
[[Category:勝幡織田氏|城なこやしよう]]
[[Category:織田信長|城なこや]]