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== 歴史 ==
那古野は、元々[[駿河国|駿河]]の[[今川氏]]が一時尾張[[守護]]を兼ねていた時期に庶流の[[那古野氏]]が領有し、[[斯波氏]]が尾張を領有した後もこの地に留まっていた。[[大永]]年間
[[1532年]]、[[勝幡城]]([[稲沢市]])の[[織田信秀]]は今川氏豊を滅ぼしてこの城を奪い、拠点を置いた。那古野城という城名はこのとき付けられたともいわれる。
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[[1534年]]生まれの信秀の嫡男、織田信長は那古野城で生まれた可能性が高いとされている。信秀は那古野城を幼い信長に譲り、自身は同じ台地の東南方を固めるために現在の[[真宗大谷派名古屋別院|真宗大谷派 名古屋別院]](名古屋市中区)の地に[[古渡城]]を築いてそこに移った。なお那古野城奪取は[[1538年]]説もあり、勝幡城で誕生ともいわれる。
[[1555年]]、信秀の後を継いでいた織田信長は、一族の[[織田信友]]を滅ぼして[[清洲城|清須城]]([[清須市]])に移った。信長が離れた後の那古野城は信長の叔父[[織田信光|信光]]、信長の重臣[[林秀貞]]らが一時入ったが、やがて廃城となった。
50年後の[[1609年]]、[[徳川家康]]がこの城の故地に目をつけ、名古屋城の築城に着手する直前には、[[鷹狩]]に使われるような荒れ野になっていたと伝えられている。
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[[Category:名古屋市中区の歴史]]
[[Category:今川氏|城なこやしよう]]
[[Category:勝幡織田氏|城なこやしよう]]
[[Category:織田信長|城なこや]]
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