「白蓮事件」の版間の差分

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== 事件の経緯 ==
1921年(大正10年)10月20日、伊藤傳右衛門は夫婦で滞在していた東京日本橋の旅館「島屋」から、福岡へ帰るために車
で東京駅へ向かい、妻・燁子は東京の親族を訪問する予定で東京残り、傳右衛門を見送った。しかし、燁子はそのまま日本橋の旅館に戻らず、行方をくらませた。
 
22日、[[大阪朝日新聞]]朝刊社会面に「'''『筑紫の女王』伊藤燁子''' '''傳右衛門氏に絶縁状を送り''' '''東京駅から突然姿を晦(くら)ませす''' '''愛人宮崎法学士と新生活?'''」の見出しで失踪の第一報が伝えられる。失踪当日の様子
、身辺の整理、宮崎龍介との出会いの経緯と唯一当事者である龍介の談話を掲載し、一面を埋める扱いで伝えられる。大阪朝日の単独スクープであった。
 
同日の夕方、各紙一斉に報じ、地元福岡の[[九州日報]]では「伊藤燁子夫人が紛失した」と大見出しで記事をあげ、「一本の巻紙」に伊藤家を去る理由を綴り、それまでに与えられた調度品と共に送付された事を伝えた。朝日と競い合う立場の[[大阪毎日新聞]]は、夕刊9面に白蓮夫人と伊藤氏の別れ話が事実であるという関係者の証言を小さく取り上げるのみであった。大阪朝日は同日夕刊で、さらに単独スクープの燁子から傳右衛門に当てた「絶縁状」を全文公開する。
 
傳右衛門は福岡へ戻る途中で立ち寄った京都の宿「伊里」で、22日朝刊の報道を知って驚愕する。たまたま京都に来ていた燁子の兄・[[柳原義光]]と連絡を取り合い、その日のうちに落ち合っている。宿に詰めかける記者に対し、一切の取材を拒否していた傳右衛門は、同日の夕刊で絶縁状が公開された事で、ようやく数社のインタビューに応じる。