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== 略歴・人物 ==
[[兵庫県]][[神戸市]]に、回漕業者・賀川純一と徳島の[[芸妓]]・菅生かめの子として生まれる。幼少期に相次いで父母と死別して、5歳の時姉と共に徳島の本家に引き取られるも、兄の放蕩により15歳の時に賀川家は破産してしまい、叔父の森六兵衛の家に移る。旧制徳島中学校(現在の[[徳島県立城南高等学校]])に通っていた[[1904年]](明治37年)、[[日本基督教会]]徳島教会にて[[南長老ミッション]]の[[宣教師]][[ハリー・マイアース|H・W・マヤス]]より[[受洗]]。この頃[[安部磯雄]]・[[木下尚江]]の著作を読み、[[キリスト教社会主義]]に共感を覚える。また[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の反戦思想にも影響を受け、[[軍事教練]][[サボタージュ]]事件を起こす。[[伝道者]]を志し、[[1905年]](明治38年)に[[明治学院]]高等部神学予科に入学、卒業後の[[1907年]](明治40年)、新設の[[神戸神学校]](後の[[中央神学校]])に入学する。
 
彼は夜の仕事に就く女性、就かざるを得ない女性に対し、差別的な言論も披露している。占領下の日本において米兵による婦女子の強姦事件が多発していた頃、『婦人公論』1947年8月号で「闇の女に堕ちる女性は、多くの欠陥を持っている」とし、パンパンについては「わざと悪に接近」するような悪魔的なところがあり、「一種の変成社会における精神分裂病患者である」と指摘した<ref name="O&S161-162">恵泉女学園大学平和文化研究所 『占領と性』 p.161-162</ref>。
 
=== 社会事業家として ===