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[[File:Al-Hakim bi-Amr Allah.jpg|thumb|250px|ハーキム]]
'''ハーキム'''('''الحاكم بأمر الله''' al-Hākim bi-Amr Allāh, [[985年]] - [[1021年]])は、[[エジプト]]を支配する[[ファーティマ朝]]の第6代[[カリフ]](在位[[996年]] - 1021年)。第5代カリフ、[[アズィーズ]]の子。冷酷な専制君主にして公正な名君であり、数々の奇行で名を残すなど、[[イスラム世界]]の歴史のうちでも特に際立った個性の持ち主として知られる。
 
==生涯==
ハーキムは幼くして即位し、[[スラヴ人]]の[[宦官]]バルジャワーンに後見されたが、バルジャワーンは後見人の立場を利用して宰相([[ワズィール]])に就任、ハーキムに監禁同然の生活を強いて政権を自由にした。成長したハーキムは、即位から5年後の16歳のときバルジャワーンを刺殺、自ら専制的な権力を握った。
 
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また、学芸も保護し、カイロに「知恵の館([[ダール・アル=イルム]])」と名づけられた教育・研究機関を創立し、カリフの私財を投じて学問を保護した。ハーキムのもと、カイロでは[[ヘレニズム]]時代を通してエジプトに伝えられた[[古代ギリシア]]の学問と、[[バグダード]]から伝えられた最新のイスラムの伝統学問の最高峰の研究が行われた。カイロ学派と呼ばれるこの時代の[[アラビア科学]]では自然科学分野の発展がめざましく、[[光学]]の分野で後世に多大な影響を与えた[[イブン=ハイサム]]らの優れた学者が輩出された。
 
ハーキムの厳格なイスマーイール主義は、一方で厳しい禁令や異教徒に対する抑圧となってあらわれた。[[イスラム教]]の教義を厳格に適用し、一切の飲酒と歌舞音曲が禁止された。異教徒に対する迫害もきわめて厳しく、男性は黒い[[ターバン]]を必ず着用して外見で区別できるように命じ、[[キリスト教徒]]は木の[[十字架]]、[[ユダヤ教徒]]は鈴を常に身に付けるよう義務付けた。[[キリスト教]]の[[教会]]、[[修道院]]、[[ユダヤ教]]の[[シナゴーグ]]はすべて廃止を命ぜられ、財産を没収された。これには一切の例外はなく、[[1009年]]には[[ムスリム]](イスラム教徒)による[[エルサレム]]征服以来、キリスト教徒の宗教的自治によって保全されてきた[[聖墳墓教会]]すらも破壊された。
 
さらに、ハーキムは宰相の殺害以来、数多くの召使いや官僚を殺したり、意に沿わない者の体を傷つけたり、些細な罪で鞭打ちなどの厳しい罰に処すなど残忍な性格をあらわにし、多くの側近や高官が犠牲となった。そのうえ、気まぐれな思いつきとしか考えられないような命令を簡単に実行する傾向があり、例えば、[[モロヘイヤ]]がシーア派と対立した過去のカリフたちの好物だったと聞いてその食用を禁止したことがよく知られている。

また、飲酒の禁止にともない没収された[[ワイン]]は[[ナイル川]]に流され、[[ブドウ]]の栽培を根絶するために全てのブドウ園が破壊された。遊興の禁止も徹底し、船遊びが禁止され、[[運河]]への立ち入りすら禁じられた。庶民の楽しみであった浴場([[ハンマーム]])にも禁令は伸び、とくに女性の入浴は禁じられ、女風呂は閉鎖された。庶民も酷薄な刑罰の例外ではなく、多くの市民が禁令を破った罪で処刑された。
 
ハーキム自身の生活ぶりも奇矯な行動を好み、みすぼらしい衣装を身に付け、夜間にわずかな供だけを連れてカイロの市中やその郊外を徘徊する毎日を送った。ハーキムの晩年には、イスマーイール派の内部でハーキムの[[カリスマ]]を信奉するグループがあらわれ、ハーキムを神格化する教説すら説かれるようになった。
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ハーキムの神格性を主張していた教宣員のグループは、行方不明になったハーキムは殺されて死んだのではなく、自発的に失踪して幽冥界でのお隠れ([[ガイバ (イスラム教)|ガイバ]])に入ったのだと信じ、「復活の日」にハーキムは救世主([[マフディー]])として再臨すると説いた。彼らはイスマーイール派の公式教義から排斥され、エジプトを追われて[[歴史的シリア|シリア]]に逃れ、その地で[[ドゥルーズ派]]と呼ばれる集団を形成している。
 
==関連項目==
*[[ファーティマ朝]]
*[[ドゥルーズ派]]
 
[[Category:イスラム史の人物|はきむ]]