「小沢治三郎」の版間の差分

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1945年2月第五航空艦隊編制から現地部隊に任せていた特攻作戦を軍令部も指導するようになった。第五航空艦隊長官[[宇垣纏]]中将は全力攻撃を行い、中央ではやりすぎ、中止させるべきという議が起こったが、小沢はやりかかったものをそんなことを言って止めるものにあらずと制肘を加えた<ref>戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期254頁</ref>。1945年3月8日中央の会議で海軍は24万トンの船舶使用を陸軍に認めたが、13日小沢は「食糧輸送船舶を含みかつ陸軍使用の影響は甚大、海軍特攻計画にも影響を与えることになるので同意できない」と異議を申し入れた<ref>戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期329頁</ref>。
 
1945年4月の[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]の[[坊ノ岬沖海戦|海上特攻]]について事前に連合艦隊参謀[[神重徳]]が許可を取りに来た際に作戦軍令部第一部長[[富岡定俊]]は燃料がないと反対し、[[及川古志郎]]軍令部総長は黙って聞いたいたが、小沢は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦626頁、戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期273頁</ref>。
 
=== 連合艦隊司令長官 ===