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白村江の戦い(663年)の大敗の後、中大兄皇子(天智天皇)唐・新羅の侵攻に備えて対馬~九州北部~瀬戸内海~大和に至る要衝に、様々な防御施設を築いたことが日本書紀に記述されている。667年(天智天皇6年)大和に高安城・讃岐に屋嶋城・対馬に金田城が築かれた。
屋嶋城は屋島の北嶺と南嶺の境の谷を遮断した石塁だけで、山上に遺構がなく城壁は築かれなかったとされ、何人も明確に説明ができない幻の城であった。1998年市内に住む平岡岩夫氏による南嶺山上の石積み発見を契機に城門跡が発掘され、屋嶋城の存在が明確になった。現在は南北嶺の山上全域も城跡とされている。高松市は、城跡の調査に並行して、2015年度の公開を目指し城門の復元工事を進めている。
また、屋島は、[[寿永]]3年(1184年)[[一ノ谷の戦い]]に破れた[[平宗盛]]らが[[安徳天皇]]を奉じて根拠としており、翌寿永4年(1185年)2月に起こった[[屋島の戦い]]の古戦場としても知られる。この戦いで源氏方の武者[[那須与一]]が、平氏方の軍船に掲げられた[[扇]]の的を射落とした故事は特に著名である。
 
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