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{{出典の明記|date=2013年12月5日 (木) 16:55 (UTC)|ソートキー=人1867年没}}
[[窪田清音]](くぼた すがね、1791年(寛政3年)2月28日 - 1867年(慶応2年)12月25日)は江戸時代の[[法家学者]][[武術家]]
[[江戸幕府]]が設置した武芸訓練機関である[[講武所]]の頭取・兵学師範役を務めた。
 
父は幕臣の兵法家である[[窪田勝英]]。初名は勝栄(かつなが)。通称は助太郎、源太夫。号は修業堂。
 
[[中島流砲術]],[[山鹿(やまが)流兵法]]、[[田宮流居合]]をはじめ十数流の武術と兵法をおさめる。
幕臣の兵学者である父・[[窪田勝英]]に[[中島流砲術]]、外祖父・[[黒野義方]]に[[山鹿流兵法]]・[[吉富流居合]]を伝授されたほか、
山鹿流兵法学者として甲越長沼等諸流兵法を兼修し、弓馬刀槍の武術のみならず
 
和歌・書道も達し、武家故実など古伝の研究・記述者としても知られた。
[[平野尚勝]]に[[田宮流剣術・居合]]・[[関口流柔術]]を、[[本多忠憲]]に[[伊勢流武家故実]]、[[土井利往]]に[[小笠原弓場故実]]を学び、
「剣法略記」「山鹿伝采幣(さいはい)伝授」「形状記」をはじめ兵書50部、剣法38部、武家故実類書13部など130部を残す。
十数流の武術と兵法をおさめる。
諸侯・旗本に兵法・武道を教授。門弟は1000人を超え、柔術を教授した中には[[小栗忠順]]、
 
兵学を教授した[[若山壮吉]]の又弟子に[[勝海舟]]、[[板垣退助]]、[[坂本竜馬]]、[[中岡慎太郎]]、[[土方久元]]がいる。
山鹿流兵法学者として甲越長沼等諸流兵法を兼修し、弓馬刀槍の武術のみならず和歌・書道も達した。
江戸期の天才刀工・[[源清麿]]の師としても知られる。
 
著書は「剣法略記」「山鹿伝采幣(さいはい)伝授」「形状記」をはじめ兵書50部、剣法38部、水軍2部、砲書3部、雑書11部、武家故実類書13部など130部を残す。し、
 
古伝の研究・記述者として大きな業績を残した。
 
兵学門人は[[諸侯]]・[[旗本]]以下3000人余、剣術門人は600人余。
諸侯・旗本に兵法・武道を教授。門弟は1000人を超え、柔術を教授した中には[[小栗忠順]]、
兵学を教授した[[若山壮吉]]の又弟子に[[勝海舟]]、[[板垣退助]]、[[坂本竜馬]]、[[中岡慎太郎]]、[[土方久元]]がいる。
 
[[土方久元]]、剣術の又弟子に[[児島惟謙]]がいるなど、幕末・明治に活躍した多くの人物に影響を与えている。
 
江戸期の天才刀工・[[源清麿]]の師匠としても知られている。[[真田幸貫]]の斡旋で江戸に上り入門した清麿を麹町の屋敷に住まわせて後見し、作刀に専念させた。
 
清麿から贈られた「(表)為窪田清音君 山浦環源清麿製(裏)弘化丙牛年八月日」の銘がある2尺6寸の豪刀は[[重要文化財]]に指定されている。
 
墓所は東京都港区青山一丁目の玉窓寺にある。
 
 
== 参考文献 ==
 
窪田清音略伝(国学院大学・佐佐木文庫)
 
勝海舟編「陸軍歴史」(海舟全集7)
 
安藤直方「講武所」(東京市史外篇3)
 
山田次朗吉「剣道集義」(高山書店)
 
石岡久夫「兵法者の生活」(雄山閣出版)
 
風間健「武士道教育総論」(壮神社)
 
 
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