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=== 近代 ===
[[第一次世界大戦]]のきっかけとなった[[フランツ・フェルディナント大公]]とその妻[[ゾフィー・ホテク]]に対する[[サラエヴォ事件|暗殺事件]]は[[1914年]][[6月28日]]に、[[ボスニア]]出身の{{仮リンク|ボスニア系セルビア人]]|bs|Bosanski Srbi}}の民族主義者[[ガヴリロ・プリンツィプ]]によって、サラエヴォにて引き起こされた。戦争に突入すると、バルカン半島での攻勢の多くは[[ベオグラード]]周辺で起き、サラエヴォは戦時中、大規模な破壊を免れた。第一次世界大戦が終わると、バルカン半島西部は[[ユーゴスラビア王国]]のもとに統合され、サラエヴォは{{仮リンク|ドリナ・バノヴィナ|en|Drina Banovina|label=ドリナ州}}(1929–1941)の州都となった。
 
[[1939年]]に[[ユーゴスラビア王国]]は{{仮リンク|バノヴィナ・クロアチア|sh|Banovina Hrvatska|en|Banovina of Croatia|label=クロアチア自治州}}を作っていたが、1941年4月1日の[[ウスタシャ]]によるザグレブの蜂起で[[クロアチア独立国]](1941–1945)建国宣言が発され、サラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナの領土は、クロアチア独立国の領土に編入された。[[1941年]][[4月8日]]、[[ナチス・ドイツ]]は[[ユーゴスラビア侵攻|ユーゴスラビアに侵攻]]し、サラエヴォを爆撃した。この時、およそ10,500人のユダヤ人、ならびに[[ロマ]]、正教徒の[[セルビア人]]が居住していた。