「神保長職」の版間の差分

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== 経歴 ==
=== 越中を掌握するまで ===
[[永正]]17年([[1520年]])、越中守護・畠山尚長([[畠山尚順|尚順]]の改名後)と[[越後国|越後]]守護代・[[長尾為景]]の連合軍に敗れて自刃した[[神保慶宗]]の子とされる。神保氏[[嫡流]]の通称である「'''宗右衛門尉'''」を継承していることから、その後継者を自認していたことは確かである。慶宗には小法師という嫡子がいたことから、それが後の長職である可能性は高い。慶宗が畠山尚慶(尚順(尚長)の初名)より[[偏諱]]を賜ったのに倣い、長職も[[同じく畠山]]より「長」の1字を受けたものとみられる(しかし前述の通り慶宗はやがて尚順から独立する動きをとって敗死しており、家督継承時には畠山氏とは疎遠になっていたものと思われる)。
 
江戸時代の史書『越登賀三州史』において富山城を築城した[[水越勝重]]なるものが、「後に神保越中守長職と称す」とありかつては同一人物と考えられていたが、これは誤伝で勝重は長職の家臣であることがわかっており、現在では長職の命を受けた勝重が築城を奉行したと考えられている。また、長職が[[越中国|越中]][[国守|守]]を称した事実はない(越中守を称したのは息子の[[神保長住]]である)。