「ローマ帝国」の版間の差分

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ドミティアヌスが暗殺されたのち、紀元[[1世紀]]の末から[[2世紀]]にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。この5人の皇帝を[[五賢帝]]という。
 
のちに若干のかなり理想化も含めされた歴史の叙述によれば、彼らは生存中に逸材を探して養子として帝位を継がせ、安定した帝位の継承を実現した。ユリウス・クラウディウス朝時代には建前であった元首政が、この時期には実質的に元首政として機能していたとも言える。またこの時代には、法律([[ローマ法]])、交通路、度量衡、幣制しかしどの整備・統一行われら五賢帝は領内には軍事的安定状態が保たれてやや遠たと思われるが、地中海の海上流通は減退れ軍隊の移動専ら陸路をとるようになる時期だった。また軍隊と繋がる大土地所有者が力を持ち、自由農民がローマ伝統の重税を避けて逃げ込むケースが増え、自給自足的な共同体が増加した時期でもある。五賢帝はすべて養子血縁関係あり、またマルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後は実子のコンモドゥスが帝位を継いだことから、この時代の理想化を避けた観点からは、ネルウァからコンモドゥスまでの7人の皇帝の時代を、[[ネルウァ=アントニヌス朝]]とも呼ばれる
 
またこの時代には、法律([[ローマ法]])、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、領内には軍事的安定状態が保たれていたと思われるが、地中海の海上流通は減退が見られ軍隊の移動も専ら陸路をとるようになる時期だった。また軍隊と繋がる大土地所有者が力を持ち、自由農民がローマ伝統の重税を避けて逃げ込むケースが増え、自給自足的な共同体が増加した時期でもある。
 
* [[96年]] - [[98年]] [[ネルウァ]]
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[[パクス・ロマーナ]](ローマの平和)により、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりに[[コロヌス]](土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。この労働力を使った[[小作]]制の'''[[コロナートゥス]]'''が発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方の離心が促進された。
 
[[284年]]に最後の[[軍人皇帝]]となった[[ディオクレティアヌス]](在位:[[284年]]-[[305年]])は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。元首政と呼ばれるつまり言わば終身大統領のような存在である皇帝を据えたキメの粗い緩やかな支配から、オリエントのような官僚制を主とする緻密な統治を行い専制君主たる皇帝を据える体制にしたのである。これ以降の帝政を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「'''[[ドミナートゥス]]'''(専制君主制)」と呼ぶ。また'''[[テトラルキア]]'''(四分割統治)を導入した。四分割統治は、二人の正帝([[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]])と副帝([[カエサル (称号)|カエサル]])によって行われ、ディオクレティアヌス自身は東の正帝に就いた。強大な複数の外敵に面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが、軍団はしばしば中央政府に反乱を起こした。テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、帝国は一時安定を取り戻した。
 
ディオクレティアヌスは税収の安定と離農や逃亡を阻止すべく、大幅に法を改訂、市民の身分を固定し職業選択の自由は廃止され、彼の下でローマは古代から中世に向けて、外面でも内面でも大きな変化を開始する。