「テューリンゲン州」の版間の差分

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ヴェッティン家の[[ザクセン公国|ザクセン選帝侯]][[フリードリヒ2世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ2世]](紳士公)の死去に伴って遺児の[[エルンスト (ザクセン選帝侯)|エルンスト]]と[[アルブレヒト3世 (ザクセン公)|アルブレヒト]]の間で行なわれた[[ライプツィヒ分割]]([[1485年]])では、テューリンゲンの多くをエルンストが継承した。
 
[[16世紀]]、[[宗教改革]]においてテューリンゲンは重要な役割を演じた。[[マルティン・ルター]]は[[ヴァルトブルク城]]で[[聖書]]のドイツ語訳を行い、[[1524年]]の[[ドイツ農民戦争]]では最後の戦闘となる[[{{仮リンク|フランケンハウゼンの戦い]]|de|Schlacht bei Frankenhausen|en|Battle of Frankenhausen}}の舞台となった。また[[シュマルカルデン同盟]]の主導者の一人ザクセン選帝侯[[ヨハン・フリードリヒ (ザクセン選帝侯)|ヨハン・フリードリヒ]](寛大公)はテューリンゲンを領有しており、この地は反皇帝・親プロテスタントの牙城であった。ヨハン・フリードリヒが[[ミュールベルクの戦い]]([[1547年]])で[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に敗れて選帝侯位を剥奪された後(選帝侯位はアルブレヒト系ヴェッティン家([[アルベルティン家]])の[[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|モーリッツ]]に与えられた)、エルンスト系ヴェッティン家([[エルネスティン家]])では分割相続が繰り返された([[ザクセン諸公国]])。そのため政治的影響力は低下し、「テューリンゲン」という地名は単なる地域名称となっていった。
 
[[1806年]]、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]によって神聖ローマ帝国が解体されると、テューリンゲンの諸侯は[[ライン同盟]]に加盟した。[[1815年]]の[[ウィーン会議]]によってそれぞれ独立国として[[ドイツ連邦]]に加盟したが、テューリンゲンにあった国は12と、他の地域と比べて突出して多かった。また[[プロイセン王国]]と[[ヘッセン選帝侯国]]も[[飛び地]]を持っていた。
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# [[ゼメルダ郡]] (''{{Lang|de|Landkreis Sömmerda}}'')
# [[ゾネベルク郡]] (''{{Lang|de|Landkreis Sonneberg}}'')
# [[{{仮リンク|ウンシュトルット=ハイニヒ郡]]|de|Unstrut-Hainich-Kreis|en|Unstrut-Hainich-Kreis}} (''{{Lang|de|Unstrut-Hainich-Kreis}}'')
# [[ヴァルトブルク郡]] (''{{Lang|de|Wartburgkreis}}'')
# [[ヴァイマラー・ラント郡]] (''{{Lang|de|Landkreis Weimarer Land}}'')