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'''エルナン・コルテス'''('''Hernán Cortés''', [[1485年]]-[[1547年]][[12月2日]])は、[[スペイン]]の[[コンキスタドール]]。初代バジェ・デ・オアハカ侯爵。[[メキシコ高原]]にあった[[アステカ帝国]]を征服した。
[[1992年]]から[[2002年]]の[[ユーロ]]導入までスペインで発行されていた最後の
== 生涯 ==
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[[1485年]]、現在の[[エストレマドゥーラ州|エストレマドゥーラ地方]][[メデジン (スペイン)|メデジン]]にて生まれる。[[イスパニョーラ島]]の統治者であった[[ニコラス・デ・オバンド]]の遠戚にあたる。
はじめ[[法律家]]を目指し[[サラマンカ大学]]に通ったが
当初、遠戚であったニコラス・デ・オバンドと共に、新大陸に渡る計画があったが、コルテスが大怪我をしたため
=== 新大陸へ ===
[[1504年]]に[[アロンソ・キンテーロ]]
[[1511年]]、コルテスは[[ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル]]のキューバ征服に参加した。その結果ベラスケスは、キューバの統治者となった。ベラスケスはキューバ支配におけるコルテスの働きに感心していた。コルテスの勇猛果敢なリーダーとして名声は、その後も続いた。そしてコルテスはベラスケスの秘書官となった。キューバにおいてコルテスはエンコミンダ制による収益や鉱山、牧畜などで生計を建てていた。秘書官としての地位により、彼は指導力も得た。1514年、コルテスは、労働力としてさらなる原住民の割当を要求していたグループのリーダーとなっていた。
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[[Image:Ruta de Cortés.svg|thumb|400px|コルテスの征服路]]
時が経ち、コルテスと統治者ベラスケスとの関係は、緊張状態となっていた。
[[1519年]]、コルテスはキューバ総督[[ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル|ディエゴ・ベラスケス]]の命令に違反して500人の兵、馬16頭、帆船11隻を率いて[[メキシコ湾]]岸沿いに進み、ユカタン半島で8年前にこの地に漂着していたコンキスタドーレス、[[ヘロニモ・デ・アギラール]]と、パイナラの族長の娘[[マリンチェ]]と出会い、彼ら二人を通訳兼案内人として先へ進んだ。同年8月、メキシコ湾岸に[[ベラクルス]]市を建設する<ref>「世界探検全史 下巻 道の発見者たち」p61 フェリペ・フェルナンデス-アルメスト著 関口篤訳 青土社 2009年10月15日第1刷発行</ref>と、内陸へと進んでいった。メキシコ高原に到達すると、[[アステカ]]の宿敵である[[トラスカラ王国|トラスカラ]]人と戦い和睦して同盟を結び、さらにテスココなど各地の勢力と同盟を結んだ上でアステカへと向かった<ref>「図説 ラルース世界史人物百科Ⅱ ルネサンス - 啓蒙時代」p76 - 77 2004年10月25日第1刷 フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編 樺山紘一日本語版監修 原書房</ref>。当時、過酷な税制によってアステカ支配下の諸民族は不満を強めており、これがコルテスらの軍と同盟を結ばせる動機となった。結果、スペインと諸民族の混成軍は膨大な数に上った。<ref>「物語メキシコの歴史」p33 [[中央公論新社]] 大垣貴志郎 2008年2月25日発行 </ref>
インディオたちに白い神[[ケツァルコアトル]]の化身と勘違いされたコルテスは、アステカ王[[モクテスマ2世]]に「国をお返しします」と言って丁重に迎えられ、[[アステカ]]の首都[[テノチティトラン]]を6日間案内されて見学し、アステカが思いの外強力であることに気づいた。このとき、血塗られた神殿も案内された。まだ動いている心臓が銀の皿にのせられていたという。
弱腰を[[貴族]]
[[ファイル:Hernan Fernando Cortes.jpg|thumb|210px|left|エルナン・コルテス]]
コルテスはベラクルスで[[パンフィロ・デ・ナルバエス]]に率いられたキューバ[[総督]]追討軍に夜襲をかけて破ると、ナルバエスの部下を味方に引き入れ[[インディオ]]を引き連れて再びテノチティトランに戻って来た。しかしこのとき、兵120名とともに留守を任されていた[[ペドロ・デ・アルバラード]]たちが祭典中のアステカ人たちを虐殺し、激怒したアステカ人たちは反乱を起こしていた。1520年6月29日、コルテスは反乱を起こしたアステカ人たちをモクテスマ2世に説得させようとしたが、激怒した市民によってモクテスマ2世は殺され、6月30日には暴動はさらに拡大して、コルテスは命からがらテノチティトランを後にしてトラスカラに引き返した。この事件はスペイン側からは「悲しき夜(ノチェ・トリステ)」と呼ばれ、約
アステカ人はモクテスマ2世のあとに新王[[クィトラワク|クイトラワック]]を選んで団結していたが、スペイン軍が持ち込んだ天然痘が蔓延して、在位わずか80日でクイトラワックは死亡し、25歳の勇敢な戦士[[クアウテモック]]を王に推戴した。
[[1521年]]の始めコルテスは5万余のスペイン兵・トラスカラ・[[テスココ]]の連合軍を率いてアステカに侵入すると、メキシコ中央盆地の都市を攻略して4月28日にテノチティトランを包囲した。3
=== 征服後 ===
アステカを征服すると、コルテスは征服した土地を部下に分け与え、自らも広大な土地を手に入れた。これにより、旧アステカにも[[エンコミエンダ制]]が大々的に成立することとなった。[[1523年]]、コルテスはカルロス1世([[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]])から総督に任命され[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]南部を探検した。同時に、ホンジェラスやニカラグアへ遠征隊を派遣した。入植者たちは、広大な土地を与えられ、労働力としてインディオ
[[1524年]]、[[ホンジュラス]]のスペイン併合を宣言。
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== 功罪と評価 ==
コルテスはアステカ文明を完膚なくまでに粉砕し、その偉大さに全く理解を及ぼさなかった。また、コルテスはキリスト教徒、それも敬虔なる[[カトリック教会|カトリック]]信徒であったがために、インディオの社会が持っていた[[人身供犠]]などの「野蛮」な側面のみをあげつらい、インディオの野蛮な習慣を廃止させることに成功したが、コルテスの略奪行為に依る
もっとも、コルテス以外の[[メキシコ]]の[[コンキスタドーレス]]たちも同様であり、自らの傲慢さや残忍さに気付く者はほぼ皆無であった(中南米での虐殺・虐待を告発したコンキスタドーレスも存在したが、激しい批判を受けたため、少数に止まっている)。事実、彼
かつてはコルテスの行為に関しては、インディオたちを人身供犠などを掲げる残酷な旧来の宗教の因習や鞏固な身分制から解放した、宣教師によって福音に接することが出来た、などと肯定的に捉える見解が大半を占めた。だが、スペイン人による隷属と搾取は、先住民の文化・伝統・宗教を徹底的に粉砕し、先住民は白人入植者たちに奴隷の様に使役されるという状況に置かれた。このため現在では、コルテスの行為は'''文化破壊行為'''として批判的に受け取られている。
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