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[[1931年]]には[[ハインリヒ・ブリューニング|ブリューニング]]内閣で内務大臣を兼任。しかし内相として[[1932年]]5月に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の[[突撃隊]]を禁止すると、ナチスの与党への取り込みを図る国防次官[[クルト・フォン・シュライヒャー]]と対立した。軍部に勢力を持ちヒンデンブルク大統領の側近でもあるシュライヒャーの要求には逆らえず国防相を辞任。直後のブリューニング内閣退陣で内相の座も失った。その後は公の場に出ることもなく、1939年に[[ポツダム]]郊外の自宅で死去した。
 
グレーナーは二度結婚し、あわせて一男一女をもうけた。最初の妻ヘレネ(1926年死去)が1900年に産んだ娘ドロテア・グレーナー=ゲイヤー(1900 ‐1986)は、1948年に[[婦人運動]]団体の会長になり、[[男女同権]]運動で活躍した。
 
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