「二重らせん」の版間の差分

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== 概説 ==
'''[[DNA]] 二重らせん'''構造は、1953年、分子模型を構築する手法を用いて'''[[ジェームズ・ワトソン]]'''(James([[w:James Watson)Watson|James Watson]])と'''[[フランシス・クリック]]'''(Francis([[w:Francis Crick)Crick|Francis Crick]])によって提唱された<ref>''[[Nature]]'' 171 pp. 737-738、1953年。</ref>。当時、DNAが遺伝物質の正体であることの実験的証拠は既に発表されていた。例えば、[[オズワルド・アベリー|アベリー]]([[w:Oswald Avery|Oswald Avery]])らによる[[肺炎双球菌]]の[[形質転換]]実験(1944年)や[[アルフレッド・ハーシー|ハーシー]]([[w:Alfred Hershey|Alfred Hershey]])らによるブレンダー実験(いわゆる[[ハーシーとチェイスの実験]];1952年)からの証拠である。しかし、複雑な遺伝情報を単純な物質である DNA が担っているという考えには批判も多く、[[タンパク質]]こそが遺伝物質であろうという意見も強かった。二重らせんモデルの提唱によって、[[遺伝]]がDNAの複製によって起こることや[[塩基配列]]が遺伝情報を担っていることが見事に説明できるようになり、その後の[[分子生物学]]の発展にも決定的な影響を与えた。1962年、この研究により、ワトソンとクリックは'''[[モーリス・ウィルキンス]]'''(Maurice Wilkins)とともに[[ノーベル生理学・医学賞]]を受賞した。<!--
 
DNAが二重らせん構造を取っていることは現在では当たり前のことになっているが、1953年以前ではDNAが生体内でどのような形状を取っているかは明らかではなかった。二重らせん構造の提唱以降DNAを実験材料とする[[分子生物学]]が発展し、事実クリックは分子生物学の主要な研究に関わりながら遺伝子への理解に貢献した。--><!--記述内容が重複-->
 
==二重らせんの主要な特徴==
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ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造にたどりつく背景には、2つの重要な研究があった。
 
第一は、'''[[エルヴィン・シャルガフ]]'''(Erwin([[w:Erwin Chargaff)Chargaff|Erwin Chargaff]])による『DNAの塩基存在比の法則』である。彼が明らかにしたのは、DNA中に含まれる[[アデニン]]と[[チミン]]、[[グアニン]]と[[シトシン]]の量比がそれぞれ等しいという至極シンプルな法則である。しかし、ワトソンとクリックの仕事以前にはこの法則をうまく説明できるようなDNAのモデルは存在しなかった。
 
第二は、'''[[モーリス・ウィルキンス]]'''(Maurice Wilkins)と'''[[ロザリンド・フランクリン]]'''(Rosalind([[w:Rosalind Franklin)Franklin|Rosalind Franklin]])による『[[X線結晶構造解析]]』である。X線結晶構造解析は、1912年の[[マックス・フォン・ラウエ]](Max von Laue)による[[X線回折]]現象の発見以降主として低分子の物質の構造解析に使用されてきたが、やがて高分子の結晶化が可能となり生体分子の解析にも応用されるようになった。例えば、[[αヘリックス]]のような[[タンパク質]]の[[二次構造]]については早くに立体構造が判明していたが、[[三次構造]]の決定は1958年の[[ジョン・ケンドリュー]](John([[w:John Kendrew)Kendrew|John Kendrew]])らによる[[マッコウクジラ]]の[[ミオグロビン]]を待たなければならなかっった。二重らせんモデル構築の参考となった写真は[[ロザリンド・フランクリン|フランクリン]]が撮影したものである。彼女自身は、その写真もとにして『DNAは2、3あるいは4本の鎖からなるらせん構造をとっているだろう』というレポートを残している。
 
当時のフランクリンとワトソン、クリックの研究環境と人間模様については数多くの出版物に描かれている。このうち、『'''二重らせん'''』(ジム・ワトソン著)はワトソンの視点から、『'''ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光'''』(アン・セイヤー著)はフランクリン側の視点から描かれている。フランクリンの研究の公表が遅れた理由のひとつとして、B型以外にも取りうる構造(A型)があることを発見したため、その両方を比較解析したうえで公表することを意図していたとされている。ワトソンとクリックが提案した二重らせん構造は、B型のモデルのみであった。