「ヴォルムス協約」の版間の差分

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'''ヴォルムス協約'''({{lang-de|Wormser Konkordat}})は、[[1122年]]にドイツの[[ヴォルムス]]において[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]と[[教皇|ローマ教皇]][[カリストゥス2世_(ローマ教皇)|カリストゥス2世]]の間で結ばれた[[コンコルダート|政教条約]]である。両者の取り持ちには[[レオポルト3世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト3世]]が当たったという<ref name="h_1987">{{Citation |和書 |last=幅 |first=健志 |title=ハプスブルク家異聞(その 4)バーベンベルク家(前編) : ドナウ辺境伯領 |periodical=同志社外国文学研究 |issn=02862832 |publisher=同志社大学 |year=1987 |pages=85-130 |url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110001044552/ }}、p.129。</ref>。神聖ローマ帝国内で世俗権力と教会が争った聖職者の叙任権の問題([[叙任権闘争]])を解決し、「叙任権は教会にあり、皇帝は世俗の権威のみを与える」と取り決めた。「根本問題をなにひとつ解決していない不透明な妥協の産物」とも評される<ref name="h_1987" />
 
== 概説 ==
[[ファイル:Urkunde Wormser Konkordat-bg.png|thumb|ヴォルムス協約原本]]
[[古代]]末期以来、私領において建てられた聖堂([[私有教会制|私有教会]])や[[修道院]]が増えていく中で、その種の聖堂の聖職者あるいは修道院長を選ぶ権利(叙任権)は土地の領主が持っていた。また、世俗権威が強大化していくと、その地域の[[司教]]の選出に対しても影響力を及ぼすようになっていった。これは教会財産の管理権を握ることと直結していたので、世俗権力にとっても重要であった。[[中世]]に入って、教皇権が伸張する中でこの叙任権をめぐる争いが起こるようになっていった。
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また、この協約の承認を求めるため[[第1ラテラン公会議]]([[1123年]])が召集されることになり、[[中世]]に入って行われていなかった[[公会議]]が復活することになった。
 
== 概説脚注 ==
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== 外部リンク ==