「ローテンブルク・オプ・デア・タウバー」の版間の差分

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[[1618年]]に勃発し[[1648年]]まで続いた三十年戦争の時代、ローテンブルクも戦費の負担や通過する友軍への便宜供与などを行った。[[1631年]]、[[1634年]]、[[1645年]]にローテンブルク付近で戦闘があった。
 
1631年10月に[[カトリック教会|カトリック]]の[[ティリー伯ヨハン・セルクラエス]]が、[[プロテスタント]]の[[ルーテル教会|ルター派]]のローテンブルクに40,000人の軍隊の宿営を求めた。街はこれを拒否し、籠城して守り抜こうとした。しかしながら、ティリー伯の軍隊は300人の兵を失っただけで、間もなくローテンブルクを陥落させた。「街に火を放ち掠奪する」と脅したティリー伯から旧市長のヌッシュが街を救った成り行きは、現在も毎年開催される街の祝祭劇[[#催し物|『マイスタートゥルンク』]]の話の元になっている。
 
帝国都市連合は[[1632年]]-1634年にかけて[[スウェーデン]]と同盟した。1634年には[[ペスト]]の大流行によって多くの死者が出た。1645年に[[フランス]]の軍隊に占領された。[[1650年]]に最後の兵士が街を去ると、この街にはもはや財産も権力もなくなり、ローテンブルクの街の発展は停滞し、街はその重要性を失っていった。これは、街が[[17世紀]]のままの状態で保存された理由である。
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