「伊東重孝」の版間の差分

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'''伊東七十郎重孝''' (いとうしちじゅうろうしげたか、[[寛永]]10年([[1633年]])7)発酉7月 - [[寛文]]8年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]([[1668年]][[6月7日]])は、仙台藩士伊東理蔵重村の二男。仙台に生まれる。伊東氏は工藤祐経の二男祐長より出。伊達政宗に仕えた祐長14世伊東肥前重信の孫。
 
 
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寛文8年4月28日 、七十郎は処刑されるとき「われ報告の忠を抱いて、罪なくして死すとも、三年のうちに癘鬼となって必ず兵部殿を亡すべし」といって壮烈な最期をとげた。
 
遺骸は阿弥陀寺(仙台市若林区新寺)に葬られたと伝えられるが、のちに伊東家の菩提所である栽松院(仙台市若林区連坊)に伊東七十郎重孝の墓として祀られている。また、当時の人々が七十郎の供養のため建立した「縛り地蔵尊」(仙台市青葉区米ヶ袋)は、万病平癒の功徳があるといわれ、祈願が叶ったら縛って上げることになっており、今でも信心している人が多い。さらに昭和5年(1930年)、桃生郡北村(石巻市北村)に「重孝神社」が創建されその霊が祀られている。