「張家口市」の版間の差分

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[[秦|秦朝]]が中国を統一すると[[郡県制]]を施行し、市域は[[代郡]]及び[[上谷郡]]に属するようになった。[[漢|漢代]]になると中原の統治権が弱体化し、北方民族である[[烏桓]]・匈奴・[[鮮卑]]らが進出し、[[魏晋南北朝時代]]を通じて北方民族の支配を受ける地域となった。
 
[[隋|隋朝]]が成立すると市域も中原支配を受けるようになり、東部は[[涿郡]]、西部は[[雁門郡]]の管轄とされるようになり、[[唐|唐代]]になると[[河北道]]に属し[[州]]及び[[新州]]、一部が[[蔚州]]に属した。
 
[[北宋五代十国時代]]、[[石敬トウ|宋朝石敬瑭]]が成立するとによりこの地域は[[遼]]に割譲され、遼代には[[武州]]、蔚州、[[奉聖州]]、[[帰化州]]、[[儒州]]、が設置されたが、まもなく[[遼]]の圧力を受け次第実効支配権を喪失、遂には華北地区の支配を放棄南部に遷都し[[南宋]]が成立するとこの地域は初めは[[遼]]、た。後には[[金 (王朝)|金]]の領土となった。やがて成立した[[元 (王朝)|元朝]]は市域に[[中書省]][[上都路]][[宣徳府]]を設置、市西北部は[[共和路]](現在の[[張北県]]一帯)に属した。
 
[[明|明代]]になると[[延慶州]]、[[保安州]]、[[雲州]]、蔚州および万全都指揮使司十二衛の地となった。[[1429年]]([[宣徳]]4年)には張家口堡を築き、京師宣府鎮に属させた。[[1449年]]([[正統 (明)|正統]]14年)には土木堡で[[土木の変]]が発生している。[[1613年]]([[万暦]]41年)には'''来遠堡'''が設置され、モンゴルとの間の貿易拠点とされている。[[清|清代]]になると[[1724年]]([[雍正]]2年)に遊牧民族を管理する口北三庁(多倫諾爾庁、独石口庁、張家口庁)が設置され、張家口市域の大部分は張家口庁に属していた。南部は宣化府(今の宣化区)に属していた。