「ゾフィア・ヤギェロンカ (1522-1575)」の版間の差分

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1568年に夫と死別すると、シェーニンゲンに与えられた所領に引退した。シェーニンゲンの所領をめぐっては継子の[[ユリウス (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|ユリウス]]との間で係争が起きたが、1572年1月17日に一応の協定が結ばれ、所領は安堵された。しかしユリウスはその後も協定を守ろうとしなかったため、ゾフィアは[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]に仲裁を願い出なければならなかった。
 
ゾフィアは1570年に[[カトリック教会|カトリック]]から[[ルーテル教会|福音派]]に改宗し、[[ヤギェウォ朝|ヤギェウォ家]]の歴史の中では唯一の[[プロテスタント]]信徒となった。その後は兄[[ジグムント2世]]の死に伴うポーランドでの王位継承問題に関わることも無く、1575年に亡くなり、[[ヴォルフェンビュッテル]]のマリア教会([[:de:Marienkirche (Wolfenbüttel)|Marienkirche (Wolfenbüttel)]])に葬られた。
 
== 参考文献 ==