「藤原乙牟漏」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]には山部親王が[[即位]]して[[桓武天皇]]となり、[[延暦]]2年([[783年]])[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]には無位から[[正三位]]に叙される。2月7日には[[夫人]](ぶにん)となり、4月には[[皇后]]に立てられる。同4年([[785年]])には安殿親王(後の[[平城天皇]])が[[立太子]]される。
 
延暦5年([[786年]])には神野親王(後の[[嵯峨天皇]])を産む。同8年([[789年]])には[[高志内親王]]を産む。同9年([[790年]])閏3月10日に31歳<ref name="takashima"/>で死去[[崩御]]し、高畠陵(長岡陵、[[京都府]][[向日市]])に葬られた。[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])には即位した平城天皇により、[[皇太后]]を追贈された。『[[続日本紀]]』によると、「后姓柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り」と記されており、「乙牟漏皇后は美しい方で、温和なお人柄であられた。礼儀正しく、良き母であられた」という意味である。
 
桓武天皇の周囲では延暦7年([[788年]])に[[夫人]][[藤原旅子]]、同8年(789年)皇太夫人[[高野新笠]](桓武の実母)、そして翌年に皇后乙牟漏が相次いで没している。また同11年([[792年]])[[皇太子]]安殿親王も病気となり、畿内に水害が起こるなど、凶事が相次いだ。桓武はこれを延暦4年(785年)[[藤原種継]]の暗殺事件により[[廃太子]]され憤死した[[早良親王]]の祟りであるとし、その霊をなだめる祀りを行わせた。こうして、日本の歴史上はじめて[[怨霊]]の観念が生まれることとなった。
 
== 脚注 ==
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== 出典 ==
* 高島正人「奈良時代における藤原氏一門の女性」『奈良時代諸氏族の研究』所収、[[吉川弘文館]]、1983年、ISBN 4642021183